2024/12/28

わすれっぽさ

 ひきこもりとそうでない人の違いについて考えてみました。そうでない人は、物事にあまりこだわらない傾向があるのかなと感じます。以前、私は他人に対して「どうしてそんなに簡単に忘れられるの?」と思うことがよくありました。しかし、今では、それが彼らの健全さの一部なのかもしれないと考えるようになりました。

やりたいことややらなければならないことが目の前にある人は、あまり立ち止まらず、前に進んでいるように見えます。一方で、ひきこもりがちな私は、立ち止まってあれこれ考えすぎることが多いように思います。

「何も言わない人も、実は自分以上に考えているのではないか」と想像することがあります。それでも、普通の人が持つ移り気や忘れっぽさは、物事を引きずらずに流していけるという点で健全なのかもしれません。

そんな健全さを少しでも取り入れられたらと思っています。では、どうすれば私が考える「いい感じ」の忘れっぽさを身につけられるのでしょうか。

その一つの方法として、まずは真似をしてみるのが良いかもしれません。たとえば、考えているけれどあえて口にしないことを意識する、少しずつでも物事を流してみる行動を試してみる、といったことです。こうした小さな工夫を続けることで、自然と「いい感じ」の忘れっぽさが身についていくのではないでしょうか。


追伸:発言や振る舞いに対してどう反応するかを考えることが多いのですが、あえて反応しないように意識を向けることや、視線をそらしてみるのも、心の中の「変なもの」に囚われないための一つの方法ではないでしょうか。

近況

 約1年ぶりのブログ更新になります。

ブログを書き始めたきっかけは、私がほぼ唯一興味を持っているテーマである「ひきこもり」について、何か記録を残しておきたいという思いからでした。

当時と今とで何が違うかと言えば、最近はSNSからすっかり距離を置いています。SNSを離れたのは、じっくりと物事を考える時間を持ちたかったからというのも理由の一つです。また、SNS上では些細な表現でも大きく響いてしまうことが不便に感じられ、その頃にはすでにあまり発信をしていませんでした。記事を書く際は、当時の思いをなるべくそのまま形にしながら、表現が偏らないようにAIでチェックを重ね、何度も書き直しました。

もともと私が「ひきこもり」について語れることは多くなく、一定数の記事を書いた時点で気持ちが整理され、結果としてブログやSNSからも離れることになったのだと思います。

ひきこもりが自らの経験について語ったり、再定義を試みたりすることは、多くのひきこもり経験者が通る道かもしれません。また、「何がうまくいかなかったのか」を考えることも重要ではありますが、私は当時から現在に至るまで、「ひきこもり」という大きな枠組みについて深く考えすぎなくても良いのではないかと思っています。過去の問題について一定の理解が得られれば、それ以上反省を重ねる必要はないのではないでしょうか。分かってもどうにもならないこともありますし、必要以上に自分の問題を大枠に当てはめてしまうのも良くないと感じています。

実を言うと、私は現在再びひきこもっています。 状況が最悪というわけではありませんが、行き詰まっている感覚があります。例えるなら、外と関わるために心の中で用意していた衣装がすっかりボロボロになり、人と関わるための取り繕いが難しくなった、そんな状態です。

ともあれ、そんな状況がしばらく続いています。それでも、このままではいけないという思いが徐々に強まってきています。希望はまだ見えないものの、少しずつ前を向こうと考え始めているところです。

寒い日が続きますが、皆さんもお体を大切にしてください。 それでは、良いお年をお迎えください。

📄 長期ひきこもり状態における社会的適応の考察:ペルソナの喪失と加齢による適応

 序章:ペルソナの喪失と活動の停滞 長期間にわたり社会から離脱した状態にある人々は、精神的な混乱が沈静化した後も、外出を避ける行動が継続することが少なくない。これは、明確な病理やトラウマによるものではなく、社会という場に立つために必要な**「演じるべき役割(ペルソナ)」を失ったこ...