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2026/07/31

「独身でいると壊れる」という話の、少し別の見方

「40歳を越えて独身でいると壊れる」というミームがある。最初に思ったのは、独身そのものより、人を雑に扱う癖に訂正が効かなくなることを指しているのではないか、ということだった。

趣味や服装が年齢不相応に見えても、それだけで人はそれほど離れない。付き合いづらさになるのは、軽く愚弄する、相手の言葉を悪く取りすぎる、自分の不機嫌を周囲に処理させる、といった、人の扱いの悪さである。

若いうちは友人や恋人との衝突を通じて、その言い方は嫌われる、その態度では関係が続かない、という反応が返ってくる。しかし年を取ると、周囲も忙しくなり、わざわざ揉めてまで本人を直そうとはしなくなる。注意する代わりに、会う回数を減らし、返信を遅らせ、黙って疎遠になる。

そう考えると、問題は「注意してくれる配偶者がいるか」にも限られない。結婚していても、配偶者がすでに見限っており、何を言っても無駄だと黙っているなら、訂正はほとんど働かない。反対に独身でも、友人、仕事仲間、親、甥や姪との関係を保ち、自分の都合だけでは通らない場面を持っていれば、振る舞いを調整する機会は残る。

親に世話が必要になったり、甥や姪の面倒を見たりすると、その場だけでも家の「子ども」の位置にはいられない。親の体調を考えて予定を組み、ときには親をなだめ、子どもの前では言葉や態度を選ぶ。見られる側、世話をする側として振る舞わなければ、場が回らない。

その役割が人格全体を変えるとは限らない。それでも、自分以外を中心にして動く位置を経験することにはなる。

摩擦が減ると、修復も減る

年を取ることで起きるのは、単純に意固地になり、訂正を拒むことだけではない。言い方を失敗したあとに、言い直す、謝る、次は少し違う返しを試す、といった切り返しそのものを諦めていく面もある。

たとえば相手の言葉が、少し嫌味にも聞こえる程度だったとする。そこで即座に敵意と決め、こちらは明確な嫌味で返す。相手が黙れば、その場の摩擦は収まったように見える。本人には、舐められずに済んだ、牽制が効いた、という感覚が残るかもしれない。

しかし相手は納得したのではなく、説明や訂正を諦めただけかもしれない。「そういう意味ではなかった」と言っても、さらに攻撃されそうなら、次から関わらないほうを選ぶ。

こうしたことは大きな喧嘩にならないぶん、本人に原因が返ってこない。軽い愚弄や強い返しは、抗議するほどではないが、次に会う理由を減らすには十分である。

その結果、周囲からは「何を言っても敵意として返される」「処置のしようがない」と見られるようになる。本人は自分を守っているつもりでも、外からは、修復の入口を塞いでいるように見える。

独身というラベルが隠しているもの

独身という条件は、この現象と無関係ではない。結婚や子育てによって半ば自動的に生じる役割移行や、日々の調整機会を持たない人はいる。

ただし独身は、この現象が起きるための必要条件でも十分条件でもない。結婚していても訂正が働かない関係はあるし、独身でも調整の機会を保てている人はいる。

このミームが独身を名指すのは、因果として正確だからというより、「40代・独身・変わった人」という像がわかりやすいからだろう。

本筋にあるのは、年齢とともに周囲が多忙になり、摩擦を避け、関係の問題を指摘ではなく疎遠によって処理するようになることだ。そのため、自分が人を遠ざけている理由を知る機会も、失敗したあとに関係へ戻る練習機会も減っていく。

第三の返し方

嫌味に聞こえる言葉への対応は、強く返すか、黙って距離を取るかの二択ではない。相手に言い直す余地を残したまま、こちらの受け取りを伝えるという第三の返し方もある。

たとえば、「今の、少し強く聞こえたけど、そういう意味だった?」と聞き返す。相手の言葉を即座に敵意と断定せず、いったん確認できる形に戻すのである。

悪意がなかったなら、相手は言い直せる。多少の悪意があったとしても、こちらに気づかれたと知ったうえで、穏便に引き下がる道が残る。それでも強く出てくる相手なら、その時点で距離を取ればよい。

最初から明確な嫌味で返せば、相手にもこちらにも、関係へ戻る道がなくなる。曖昧な敵意に対して、こちらの側から明瞭な攻撃を完成させないことは、単に穏便に済ませるためではなく、失言や誤解のあとにも修復を試せる状態を残すための技術なのだと思う。

気づいたからといって、長く続いた反射がすぐ直るとは限らない。それでも、相手を変えるより先に、こちら側の返し方から変えるしかない。


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2026/07/29

みい山アニメ化をきっかけに考えた観客席の話



観客席の話

『みいちゃんと山田さん』『地元最高!』『ウリッコ』。このあたりの漫画には、共通した感触がある。人物を、家庭環境、認知のかたより、貧困、搾取、福祉につながれない事情、といった補助線で読ませてくるところです。読めば「たしかにそう見える」と頷ける。頷けるのだけれど、同時にどこか、座り心地のいい椅子に案内されているような気もします。

今日はその椅子の話をします。

判定席

こういう作品を読んでいるとき、読者は単なる目撃者ではない。もう少しいい席をもらっている。

この人はなぜこうなったのか。誰が搾取する側で、誰がされる側か。どこで人生が折れたのか。どこで別の手を打てば助かったのか。——それが「分かる」位置に、読者は座らされている。しかも家庭とか認知特性とか福祉とかの語彙で裏打ちされているので、単なる覗き見ではなく「社会を理解している」感じまで付いてくる。人物評をしているのに、勉強をしている気分になれる。

これを判定席と呼んでみます。座り心地は、正直かなりいい。

念のため言っておくと、この見方自体が間違っているとは言いたくない。家庭環境も貧困も、実際に人生を左右する。補助線としては有効です。ただ、補助線に頷けることと、それ一本を自分の世界観として採用することは、別の話かと思います。人は一つの見え方だけで人生を過ごせるわけではないので。

軍師席

判定席には、もう少し前のめりなバージョンもある。

『火垂るの墓』の雑談を思い出してみてください。清太は叔母の家を出るべきじゃなかった。意地を張らなければ助かった。もっと働けばよかった。節子のために我慢すべきだった。——ネットで何度も見た光景ではないでしょうか。

これは要するに「自分ならこの破局を回避できた」という遊びです。結末を知っている観客が、安全な場所から最適解を並べる。将棋の感想戦を、指してもいない人がやっている。軍師席と呼んでおきます。

これも、娯楽としては別にいい。私もやる。ただ一つだけ確認しておきたいのは、この軍師視点、自分の人生には使えないということです。自分の番になると、情報は足りないし、感情は絡むし、体力にも限りがあるし、先の展開は分からないし、分かっていても選べなかったりする。観客席から盤面がよく見えるのは、盤面に自分の駒がないからだと思います。

立法者席

軍師席の奥には、さらに上等な席がある。

こういう作品は、家庭・孤立・搾取といった因果が読者に分かるよう整理されているので、「ここで支援につながっていれば」「行政がもっと早く介入していれば」と、政策を連想しやすい。登場人物ひとりを動かす軍師席から、社会ごと動かす立法者席への昇格、という感じでしょうか。

しかも立法者席は、SNS上での見栄えがいい。ただの野次馬ではなく、社会問題を考える人として発言できる。だから盛り上がりやすいのかもしれません。

思いつくこと自体はいい。ただ、現実の政策は物語の主人公ひとりのためには作れません。事情の違う大量の人、予算、誤判定、副作用、本人の意思。作品は「なぜこの人は救われなかったか」を考える入口にはなっても、答えの側までは連れて行ってくれない。入口で答えた気になれるのが、この席の甘いところかもしれません。

ここから先は、今まさに起きている話

ここまでは、作品と席の一般論でした。ここから先は少し違う。今、実際に起きている話をします。

『みいちゃんと山田さん』のアニメ化をきっかけに、ここ最近、Xで「露悪」という言葉が飛び交っています。私は見出し程度にしか追えていないのだけれど、批判の骨子はこういうことでしょう。現実の醜い部分をわざわざ選び、強調し、因果をきれいに整えて、見世物として気持ちよく出している——嘘だから駄目なのではなく、事実の選び方と並べ方で現実を歪めている、という批判です。

そして「露悪」の隣には「悪趣味」という言葉もあった。少なくとも今回のこの話題の中での使われ方を見るかぎり、この二つは矛先が違う。露悪は作品の切り取り方への批判。悪趣味は、それを面白がっているお前は何なんだ、という観客への判定に近い。

つまり、ここで初めて舞台ではなく客席に照明が当たった。さっきまで判定席や軍師席に座って作品を判定していた側が、今度は判定される側に回っている。

法廷

照明を当てられた観客は、どう答えたか。

擁護側はこう言いました。見えにくい現実を可視化している。実在する社会問題を描いている。問題提起として意味がある。——なかなか立派な弁護状です。批判側は、真実を歪めていると検察をやる。こうして論争は「この作品は現代社会の真実を正しく語っているか」という法廷になっていく。

ここで一つ面白いのは、批判側もあまり「嘘だ」とは言っていないところです。むしろ、よく当たっているからこそ危ない、という組み立てになっている。そのうえで、制度や支援の話が足りない、責任が本人の特性に帰されている、もっと真面目に描くべきだ、と言う。つまり批判側は補助線を否定していない。もっと上等な補助線を引けと言っている。そうすると、批判側は「不十分に有用」、擁護側は「十分に有用」で戦っていることになる。争点は、作品が有用かどうかではなく、有用性の量だけです。

でも、擁護の底には、もっと雑な楽しみも混じっているのではないか。悲惨な人物や嫌な人間関係を、安全な場所から眺めて、見抜いた気になれる。それが娯楽として面白い。——そういう部分も、正直あるのではないでしょうか。

なのに、なぜ誰もそう言わないのか。言えないからです。「人の苦境を見抜く快楽として楽しみました」と正直に陳述すると、自分の冷たさが法廷に露出する。だから代わりに社会的意義という弁護状を書く。批判側も批判側で、作品を裁くことで「自分は弱者を見世物にする側ではない」と表明できる。よく見るとこの法廷、全員が作品の話をしながら自分を守っている。

一応言っておくと、当事者に近い人がこういう作品を忌々しく思う瞬間は、当然ある。娯楽はしばしば当事者に対して不遜です。その感情は本物だと思います。ただ、その感情だけで、この作品はあってよい・いけないまで決まるわけでもない。それに、そもそもドキュメンタリーですら何を撮って何を切るかで創作的です。架空の漫画が真実の代表権を持たされるのは、荷が重い。

作品は真実そのものではなく、真実らしさを材料にした、多少不遜な娯楽です。だから好きでいいし、嫌いでいい。ただ、丸ごと現実として飲み込む必要はない。

居酒屋のほうの話

ここまでずっとXの話をしてきましたが、同じことはもっと小さい場所でも起きている。

悪趣味な作品を楽しむのは、別に悪いことではない。実際、多くの人が知っている楽しみです。「あれえげつなくて面白かったね」「わかる」——ここまでは、たいてい成立する。

ところが「どこが?」に答え始めると、少し様子が変わってくる。破滅していく過程の因果がきれいに見えるところ、とか、自分は絶対そちら側に行かないという安全圏から眺めているところ、とか言わざるを得なくなる。すると相手は、作品の話を聞いていたはずが、目の前にいる人間の冷たさの説明を聞かされていることになる。作品評の形をした、かなり重い自己紹介です。

不思議なのは、順番が逆になっているところです。普通、説明すれば分かり合えるはずでしょう。ところがこの手の楽しみは、説明した瞬間に共有が壊れる。理由まで降りると、話題が作品の性質から観客の位置へ移ってしまうからでしょうか。

Xで刺さる相手は抽象的な「当事者」ですが、居酒屋では隣に座っている。距離が違うだけで、話している内容は同じです。

だから、「もやっと面白かったよ」で止めておくのは、浅さではないのだと思います。あれはたぶん作法です。日常では自然に守られているその作法が、アニメ化という公共の出来事によって使えなくなった。全員が理由を述べる位置に引き出されて、理由を述べれば自分が露出するので、代わりに公の語彙を借りる。真面目顔というのは、作法が使えなくなった場所での代用品なのかもしれません。

席を立つ

まとめます。

この手の作品は、読者にいい席を配ってくれる。人物を見抜く判定席。破局を回避してみせる軍師席。社会を設計する立法者席。どれも座り心地がよくて、座ること自体は娯楽として全然あり——というのは、ここまで何度も言ってきた通りです。

ただし席には、付いてこないものがある。真実の代表権は付いてこない。自分の人生への適用可能性も付いてこない。政策の答えも付いてこない。付いてくるのは、上映時間ぶんの面白さだけです。

だから、弁護状も判決文も書かなくていい。細かい理由も、言わなくていい。

面白かった、と言って席を立てばいい。それで足りているのではないかと思っています。



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2026/06/18

再始動に必要なのは、加速よりも「全損にしない」設計かもしれない




最近、再始動について考えることがある。

「今がこれからで一番若い」とか「遅れは取り戻せる」とか、何かを始める話をするとそういう言葉がよく出てくる。前向きな力があるのはわかるし、実際そういう言葉に助けられることもある。

ただ自分の場合、つまずくポイントがちょっとズレていた。

動き出し自体は、意外とできる。最初はゆるく始められるし、「昨日よりできた」「先月より前に進んだ」という実感も出てくる。問題はその後だった。

慣れてくると、今度は効率が気になり始める。せっかくならもっとうまくやりたい。もう少し増やせるかもしれない。関連することも一緒にやった方がいいかもしれない。効率化や拡張を考え始めること自体は自然なことだと思う。

でも振り返ると、自分が崩れるのはいつも動き出しの時期ではなく、軌道に乗った後だった。勢いがついてくると、進むことより速度の管理の方が難しくなる。

それで最近は、「どれだけ加速できるか」ではなく、「どう運用するか」という視点で再始動を考えるようになった。ここでいう運用とは、途中で失速したり中断したりしても、ゼロ地点に戻らないための設計のことだ。

続けていると、必ず何か起きる。疲れることもあるし、飽きることもある。生活が変わることもあるし、単純に体調を崩すこともある。長く続けるほど、その確率は上がる。

そこで大事になるのは、「絶対に踏み外さないこと」じゃないと思っている。多少踏み外しても、それをゼロとみなさないことだ。

たとえば半年続けた後に一か月休んだとしても、半年続けた事実は消えない。「全部無駄になった」と考えると本当にゼロからやり直すことになるけど、「半年続いた上で一か月休んだ」と考えるなら、現在地は残る。積み上げたものも、再開するための経験も。

規模は違うけど、ひきこもりから外に出始めた人が数日家にいたとして、それまでの積み重ねが消えるわけじゃない。再開できるだけの経験は残っている。

再始動を難しくするのは、失敗そのものより、失敗を全損として扱うことなのかもしれない。

もう一つ、最近意識していることがある。初期のコストをかけすぎないことだ。ここでいうコストは、金銭的・制度的な先払いのコミットメントのこと。

以前は大きな先払いをして自分を追い込む方法を選んでいた。でも今は、年間契約より月契約を選ぶようにしている。最初から大きく賭けるより、途中で方向転換できる余地を残しておく。

これは本気じゃないからじゃない。むしろ長く続けたいからだ。再開の敷居を下げておくこと自体が、運用設計の一部だと思っている。

再始動の初期は、成功体験が目立つ。でもある程度進むと、課題は加速ではなく維持になる。そして維持の段階では、「一度も崩れないこと」より、「崩れた後に戻ってこられること」の方が大事になってくる。

再始動とは、止まらないことじゃないのかもしれない。多少止まっても、多少遅くなっても、また歩き出せる状態を残しておくこと。

最近はそんなふうに考えている。


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2026/06/16

6/16 散歩

 




歩くことはストレス解消に良いと、世間ではよく言われている。頭を空っぽにして規則的に足を動かせば、鬱屈とした気分も晴れていく。理屈としては十分に理解しているつもりだ。しかし、皮肉なことに心身の調子が本当に悪くなってしまうと、人間はぱったりと歩かなくなる。玄関のドアを開けて外に出ることすら億劫になり、ただ部屋の中でじっとやり過ごすしかなくなってしまうのだ。だからこそ、そうなる前の予防策として、なるべく習慣的に歩きに出ようと心に決めている。


とはいえ、「健康のため」「運動のため」と高尚な目的を掲げすぎてしまうと、それはたちまち日々の義務へと姿を変え、かえって足取りを重くしてしまう。だからこの頃は、なるべく気負わずに歩き出すようにしている。ウェアを着込んだり、特別な準備をしたりはしない。履き慣れたスニーカーにに足を滑らせ、ただフラッと外へ出るだけだ。


ひとたび外へ出れば、狭い部屋の中にいるよりも、偶然に出会うものが圧倒的に多い。やや早足で、軽めの足取りでいつもの道を抜けていく。すれ違う子どもたちの楽しげな会話の断片。風に揺れる木々の間からこぼれ落ちる、柔らかい木漏れ日。ふと空を厚い雲がよぎり、一瞬だけ世界がフッと暗くなる静かな時間。どこかの庭先で生け垣を剪定したばかりなのだろう、鼻をくすぐる青臭い植物の匂い。私はそれらを立ち止まって凝視するわけではない。ただ通り過ぎながら、景色の一部としてぼんやりと受け止め、また歩き続ける。


こうして歩こうとしているのは、根本を辿ればメンタルや体調が崩れないようにするための予防策に他ならない。しかし、歩いている最中は、そんなもっともらしい理由は意識の片隅にすっかり追いやってしまう。「運動しなきゃ」という強迫観念から自分を解放し、ただ外の空気に触れて、少しリラックスした自分の本来の調子を思い出す。それこそが、今の私にとって最も大切なことなのだ。


息を切らして汗をかくようなハードな運動は求めていない。その日の気分に合わせて適当な距離を歩く。疲労困憊になるまで歩き続けるのではなく、まだ少し歩けそうだなという「余力」を残して家路につく。靴を脱いで部屋に戻ったとき、心身の風通しがほんの少しだけ良くなっているのを感じる。気負わない、目的を忘れるための散歩。それが、今の私にちょうどいい習慣になっている。

2026/05/30

関係の帳簿について



ロールには賞味期限がある

恋人同士なら甘えたり拗ねたりしても許されやすい。夫婦なら疲れが顔に出ることも「まあそういうもんだ」で済ましやすい。友達同士なら軽口が仲の良さの証になり、職場では多少無愛想でも「仕事だから」で収まる。

関係ごとに、それぞれのロール(役割)と暗黙のルールがある。

しかし、互いへの見通しが失われた瞬間、ロールは急に効力を失う。甘えがわがままになり、疲れた顔がただの不機嫌になり、軽口が無神経になる。負担が一方に偏り、互いに摩耗し始めたとき、かつて「当然」だった関係は、急に重く息苦しいものに変わる。

帳簿は冷たい計算ではない

人間関係には、目に見えない帳簿がある。

それは単なる損得計算ではなく、相手を「自分と同じ一人の人間」として見続けるための、互いの負担と配慮の記憶だ。

あのとき助けてもらった。今回は自分が迷惑をかけた。相手は今きつそうだ。この頼みは少し重すぎるかもしれない。でも、これは伝えないといけない——。

相手の事情と自分の負担を、お互いに少しずつ見積もれる。だからこそ、「頼る」「断る」「謝る」「待つ」「距離を置く」といった行動も、関係を壊すものではなく、関係を整えるためのやりとりになる。

帳簿が通じる相手だからこそ、お互いを尊重できる。

帳簿があるから人間関係がギスギスするのではない。むしろ、帳簿を読めなくなったときにギスギスが生まれる。

読めないときは、離れることも調整になる

体や気持ちのコンディションが崩れると、この帳簿が読めなくなる。自分が負担していることだけが大きく見え、相手がこれまで払ってきたものが見えなくなる。相手の沈黙や雑な返信が、全部「自分を軽く見ている」に映ってしまう。

そういう状態で無理に話し合おうとすると、調整ではなく不満のぶつけ合いになる。だから「帳簿が読めないとき」に距離を置くのは、逃げではなく関係を守る行動だ。

名前のない関係にも帳簿はある

また、恋人・夫婦・友人・職場のようにはっきり名前のつく関係だけでなく、男同士・女同士といったゆるい関係の型にも、それぞれ帳簿の読み方がある。

男同士の関係では、深入りしすぎないことで相手のメンツを保ち、「いざとなれば助ける」という余地を残すスタイルが機能することがある。

一方、女同士の関係では、変化に気づく・話を聞く・共感する・誘う・断るといった感情のやりとりが密になりやすい。うまく回ればとても強い関係になるが、気持ちを投げつける側と受け止める側に固定されると、消耗と距離が生まれやすい。

ただ、これは「男とはこう、女とはこう」という話ではない。関係のパターンの話だ。

どんな関係でも問われているのは結局同じこと——「この人は場のルールと帳簿を読める相手か」という点だ。読めない相手は、対等に話す相手ではなく、「ケアする相手」「接待する相手」「警戒して距離を置く相手」として扱われていく。

重い話は、関係残高を使う

重い話を持ちかけるときも、同じ構造が働く。

聞く側には前提を理解し、感情の重さを受け止め、どこまで応じればいいかを判断するコストがかかる。それだけの関係の積み重ねがなければ、話の内容より先に「この人、重いな」という印象が立ってしまう。

帳簿が見えない場所では、この負荷はさらに強くなる。

SNSで政治の話が重く感じられやすいのも、この構造と似ている。政治の話題は表面上は制度や理屈の話に見えても、実際には怒り・不安・所属感・被害感・正義感が強く乗る。

読む側は「これは議論か、ただの吐き出しか、同意を求めているのか」をまず判断しなければならない。しかもSNSでは相手との積み重ねが見えない。そこで感情と正義が詰め込まれた重い話だけが、脈絡なく流れてくる。

帳簿が見えるから、軽くなる

だからこそ、人間関係は感情をなんでも無条件に受け止め合う場所ではない。

お互いの負担を記憶し、頼ったり断ったり、帳簿が読めないときは距離を置いたりする。その運用が成立する相手だからこそ、対等に話す価値が生まれる。

帳簿を見せ合える相手だから、頼ることも、断ることも、少し離れることもできる。

そういう関係は、本当の意味で軽い。

後記

まあ、身も蓋もない話をすれば、この帳簿がハナから読めない人もいるし、関係が摩耗して読めなくなることもある。そこはもう、みんな困っているんじゃないの、と思う。

今回は解決策というより、人間関係は案外こういう規則で動いているのではないか、という考えの整理として書いた。



2026/03/23

一歩引いてみても、落ち着けるとは限らない

ネットを長く見ていると、定期的に「自分たちを外から観察する」ような話題が目につく。

たとえば、今の自分の学校や界隈の常識は、一歩外に出たら通用しないローカルなものだ、とか。今ちやほやされている人も、別の場所では評価されないかもしれない、とか。いわゆる「メタ認知」というやつだ。

昔はそういう見方に、少し知的な新鮮さを感じていた。
「いま見えている景色がすべてではない」と疑うことは、自分の居場所を相対化するための必要な目つきだったからだ。

でも、長くそんな言葉を見ているうちに、だんだん疑わしくなってきた。自分を外から見ることは、言われるほど万能なのだろうか。

たしかに、物事の構造に気づく役には立つ。あの人たちはどんな前提で話しているのか。この価値観は誰をこぼしやすいのか。一歩引けば、そういうものはよく見える。

けれど、やっかいなのは「見えたからといって、自分が落ち着けるわけではない」ということだ。

世の中には、都市部の競争とは違う、地元や仲間の絆で回っている別の幸せがある。そういう知識を得ることは無駄ではない。「競争で勝つことだけがすべてだ」と思いつめずに済むからだ。

でも、その世界に自分の接点がなければ、観察はそこで終わる。
「なるほど、そういう幸せもあるのか」と理解できても、自分がその輪に入れるわけではない。見取り図は手に入っても、自分の足場ができるわけではないのだ。

そう考えると、僕たちが自分を外から見たくなる本当の理由は、幸福を説明したいからではなく、自分のしんどさの理由を知りたいからなのかもしれない。

なぜ自分はうまく乗れなかったのか。どこで噛み合わなくなったのか。
それを確かめたくて、一歩引いて考える。自分の癖や、無理をしていた場所が見えることもある。

ただ、それで心が救われるかというと、そうでもない。自分のしんどさを、より細かく説明できるようになっただけだ。説明は増える。でも、それだけで居場所が増えるわけではない。

厄介なことに、この自己分析はけっこう面白い。背景にある価値観や、話がずれた原因を順番にほどいていくと、混乱に形が与えられ、何か前に進んでいるような錯覚に陥る。

でも実際には、その場でずっと足踏みしているだけなのかもしれない。頭の中が整理されても、生活が前に進むとは限らない。

だから、自分を外から見る癖のある人に必要なのは、もっと高い視点から自分を厳しく採点することではない。むしろ逆だ。
「これ以上考えても、何かが増えるわけじゃないな」と見切ること。
「観察対象としては面白いけど、自分の居場所じゃないな」と線を引くこと。

一歩引いてみる能力は、自分を追い詰めるためではなく、背負わなくていいものを仕分けるために使ったほうがいい。

……みたいな話を、さっきAIと話していた。

そのあと、重い腰を上げて、たまっていた洗濯物を抱えてコインランドリーに来た。乾燥機の丸い窓の向こうで、シャツとタオルと靴下が、ただぐるぐる回っている。

自分を外から観察することと、生活のために洗濯をしに来ることは、たぶんまったく別の能力なんだと思う。
一歩引いてみても、すぐに人生が楽になるわけではない。でも、とりあえず洗濯物は回しておいたほうがいい。今日はたぶん、そのくらいでいい。

2026/02/08

「240kcal」の誘惑と、1年後の自分を守るための防衛線

 運動を始めると、私たちはつい「より遠くへ、より多く」を求めてしまいます。しかし、そこには**「成功と失敗の紙一重な境界線」**が潜んでいます。

今回の挑戦において、本当の勝利とは何か。改めてその戦略を定義します。


1. 「能力」のキープこそが最大の資産

今の「2kmを余裕で歩ける」という状態を作るのに、今回はダイエットという強い動機を持って2ヶ月かかりました。一度手放すと、この状態に戻るにはまた膨大な時間とエネルギーが必要です。

  • 失敗の定義: できた余裕をすべて距離(カロリー消費)に使い果たし、燃え尽きて止めてしまうこと。

  • 成功の定義: 距離を伸ばせる「能力」を維持したまま、あえて欲張らずに毎日を続けること。

「10km歩く人」になるのではなく、**「10km歩こうと思えば歩ける能力を持ちながら、あえて2kmで切り上げて元気を温存する人」**を目指す。これが、1年後の継続に向けた成功イメージです。


2. 距離を伸ばす「本当の価値」と「割に合わないコスト」

もちろん、6kmを余裕で歩けるようになることには大きな意味があります。

  • プラスの側面(投資): 6km歩いてもケロッとしているようになるならば=「体の性能」が上がり、日常生活のあらゆる動作が楽になる(QOLの向上)。

  • マイナスの側面(負債): 240kcal消費(おにぎり1個分)のために、その後数時間から半日も**「ゾンビ状態」**で放心する。

後者は、ダイエットの視点で見ても、人生の時間の使い方としても、明らかな「赤字」です。「作業」としての数キロメートルのために、大切な「生活の元気」を差し出すのは、割に合いません。


3. 「余力」は生活の質を守るための「在庫」

体力は使い切るためのものではなく、**「いざという時のための在庫」**として持っておくのが正解です。

  • 在庫(余裕)がある状態: 帰宅後に創作に打ち込める、家事が苦にならない、気分が安定する。

  • 在庫切れ(疲労困憊): 椅子から立ち上がるのも億劫になり、せっかくの休日も「ただの回復時間」で終わる。

目標は「6kmを余裕で歩ける体」を育てることですが、それは「毎日6km歩く」ことではありません。「ポテンシャルは育てつつ、運用は2km〜4kmの安全圏で回す」。このバランス感覚こそが、自爆サイクルを止めるブレーキになります。


4. 総量が小さいからこその「シビアな境界線」

忘れてはならないのは、**「体力の総量が小さい」**という現実です。

リソースが限られている以上、成功(適切な運動)と失敗(過労による破綻)の距離は非常に近く、わずかな無理が即座にQOLの崩壊に繋がります。余裕を残すことは「手抜き」ではなく、**「生活を破綻させないための高度なリスク管理」**です。


結論:1年後の自分への約束

これまでの経験上、一度手放してから復帰するまでのハードルは高いものでした。

1年後、もし**「相変わらず2kmだけど、いつでも6kmくらいは行けるし、毎日元気だ」**と言えていたら、それは過去の自分を完全に超えた証です。

カロリー消費の差という「小銭」を拾うために、継続という「資産」を投げ出さない。 「2ヶ月かけて作った2kmの余裕」という定期預金を大切に守り、その利息(余った元気)で日々の生活を楽しむこと。

それが、今再定義した「意味のある選択」です。

運動習慣の罠「距離のインフレ」を防いで、1年後に続けていること

これまで運動を習慣にしようとするたびに直面してきたのが、**「歩行距離のインフレ」**という課題です。

最初は2km程度の気軽なスタートであっても、次第に「もっと歩かなければ(もしくは走らなければ)」という強迫観念や、分かりやすい数字(距離)への依存が始まり、気づけば10km、20kmと自分を追い込んでしまう傾向がありました。

この「距離を増やすこと」だけを唯一の達成感にしてしまうサイクルが、最終的に気力と体力を使い果たし、運動そのものを放り投げてしまう大きな要因となっていました。

今回の取り組みでは、この過去のパターンを教訓とし、「いかにインフレを抑え、生活の質(QOL)を保てる範囲で踏みとどまるか」を最大のテーマに据えます。


1. 現在のジレンマ:距離とQOLのトレードオフ

歩く距離を増やすことは、一見「良いこと」に思えますが、実は生活の質(QOL)とのシビアなトレードオフが発生しています。

  • 2kmウォーキング

    • 余裕はあるが、「運動した」という手応えに欠ける。

  • 6kmウォーキング

    • 達成感はあるが、余力を使い果たし、その後の生活が「ゾンビ状態(無気力)」になる。

【注目】カロリーの罠

2kmと6kmの差は、消費カロリーで言えばわずか240kcal程度です。

このわずかな数値のために、その後の数時間を無気力に過ごすのは、人生の「時間」と「元気」の使い道として非常にコスパが悪いと言わざるを得ません。


2. 「自爆サイクル」の原因と対策

なぜ、私たちは疲弊するとわかっていても距離を伸ばしてしまうのでしょうか?

それは「次に何をすればいいか」という目標が曖昧なとき、「距離」という分かりやすい数字に逃げてしまうからです。その結果、生活を侵食するレベルまで距離が伸び、嫌になって放り投げるパターンを繰り返してきました。

今回の成功を「1年後の継続」に置くなら、以下のマインドセットへの切り替えが必要です。

新しい「勝ち」の定義

  • 「距離」を報酬にしない: 10km歩けたことを自分へのご褒美にしない。

  • 「余力」を報酬にする: 歩いて帰った後、すぐに好きな作業(イラストや仕事)に取りかかれた自分を「勝ち」とする。

  • 距離の天井を決める: 調子が良くても「今日はここまで」と欲張らない勇気を持つ。


3. 「1年後」を見据えた具体的なマイルストーン

1年後に「2kmを気楽に歩いている自分」を維持するための、新しい達成基準を提案します。

段階達成とみなす基準(リワード)
短期(今)6kmまで行かずに、3〜4kmで**「もっと歩きたい」**という気持ちを残して帰る。
中期(3ヶ月)2km歩くことが、歯磨きと同じくらい**「努力感ゼロ」**の習慣になっている。
長期(1年)距離の増減に一喜一憂せず、体調に合わせてサッと切り上げられている

結論:目指すのは「より良い現状維持」

今回の戦略の肝は、役割分担を明確にすることです。

  1. 体重調整: 食事の微調整に任せる(低コスト)。

  2. ウォーキング: 日常を元気に過ごすための「エンジンのアイドリング」に留める。

この「あえて欲張らない管理」ができるようになれば、1年後も確実に習慣として残っているかと思う。

2023/10/28

つぶやき日記 「踏み込まない」

 長年のフォロアーさんがツイッターをやめた。 本人はSNSに飽きて区切りをつけたのだろう。 親しいけど、お互いにプライベートに入り込まない関係だった。 そんな曖昧なSNSに見切りをつけたのだ。

別のフォロアーさんはお見合い中だが、 趣味を書いても同じジャンルの中でもマイナーなものに合う人はまずいないと呟いていた。 趣味は話のきっかけだが、それだけでは仲良くなれないということだ。

私も元気がなくて、人と仲良くなるのが苦手だ。 ネットでは急に親しくなるのはあまり良くないと思う。 でも、積極的にならないと距離は縮まらない。 私はもう長いこと、人と距離を縮める努力をしていない。

リアルでも同じだろうか。相手の興味に合わせる必要はそんなになさそうだが、 それでも一緒に過ごす時間は必要だ。 しかし、元気がないから、社交的になるのが難しいと感じる。

2023/07/14

ひきこもりであることを隠すことには合理性があるのか

 

カフェ

 

私はひきこもりであることを話すか話さないかについて悩んでいます。
この記事では、その悩みの背景や理由を説明し、自分の考えを示します。

ひきこもりであることを話す場合
ひきこもりであることを話す場合の良い点と悪い点は以下の通りです。

- 良い点:自分の状況や感情を正直に伝えることで、他者から共感や理解を得られる可能性があります
- 悪い点:話すことで傷つくことがあります。例えば、「自分は家にいるのはぜんぜん苦じゃないんだよね」「ひきこもってられるのは良いことだようらやましいよ」というような発言をされることがあり、上から目線で無神経な発言に感じます。そういう発言に対してストレスを感じます。

ひきこもりであることを話さない場合
ひきこもりであることを話さない場合の利点と欠点は以下の通りです。

- 利点:自分の弱みを隠すことで、冷淡な接し方や雑な扱いを避けられる可能性があります。かわりに抗議する人がいないと思われるので、雑な扱いをされやすくなるという考えです。それなのでちゃんと扱われるため、あまり自分の弱みを語らずに擬態することにも合理性はあるようにも思います。
- 欠点:孤立することや学ぶ機会を失うこと。前回の記事『周りの人との距離感について考えてみた』では、「要するに、支援者に求めるような期待を別の立場の人に求めるのをやめて、他の人との関係から新しい見方や考え方を見つけられるのではないかと思います」と書きました。

私はひきこもりから脱したいかという問は、ちょっと難しいです。健康状態などあまり変えられない事も絡んでいますから。それなので活動できるときもあれば、できないときもあります。トータルではそれほど活動が多くなくとも日常は、不調に崩れることを見越しながら積み直そうとする持久戦のようにも思えます。ポジティブにそう思っているわけではなく、大きな変化は続かないことからの妥協です。

私はひきこもりであることを言うか言わないかについて決めかねています。
言うのか言わないのか、結論は今回も出ません。
言う言わないによる他人の対応などはそもそもコントロールしきれないので今の悩み自体がナンセンスな気はします。けっきょくのところその場次第でもあるでしょう。いまは自分の行動範囲の中で、やっかいに見られないように振る舞おうとしているだけです。

 

参照記事

 ひきこもりを話すことの懸念
https://hikikomorilife55.blogspot.com/2023/07/blog-post_12.html

 周りの人との距離感について考えてみた
https://hikikomorilife55.blogspot.com/2023/07/blog-post.html 

 

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2023/07/12

ひきこもりを話すことの懸念

 

サイダーハウス

  私はひきこもりです。ひきこもりであることについて、周りの人たちとコミュニケーションするのは難しいです。善意の人が何も言わないほうがマシなことを言ってきます。

「自分は家にいるのはぜんぜん苦じゃないんだよね」「ひきこもってられるのは良いことだようらやましいよ」

そういう言葉を聞くと、私はどう反応すればいいかわかりません。相手は気さくに対等に話しているつもりかもしれませんが、私にとっては上から目線で無神経な発言です。私はそういう発言に対してストレスを感じます。

だから、私はひきこもりだと言わないですむなら言わないし、小出しにします。それが処世術だと思っています。自分を隠すことで、コミュニケーションコストを減らすことができます。気難しすぎる態度を取ることで、相手を萎縮させることを避けることができます。

でも、AIに相談したら、それは良くないことだと言われました。

「あなたが自分を隠していることは、あなたが自分を否定していることになります。あなたが自分を否定していることは、あなたが自分を嫌っていることになります。」

AIはそう言いました。私は嫌気がさしましたが、反論することもできませんでした。
この話に結論はありません。私はまだ迷っています。でも、少なくとも、私は自分の気持ちを書くことで、少し楽になりました。

 

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2023/07/09

不利な立場と迷惑行為の関係性

 

ぬこと遊んでいる


加害性のある弱者という言葉がある。不利な立場にある人が同時に迷惑行為を行うということだ。彼らを不利にした原因は被害にあっている人たちに直接の関係がない場合も多い。一般的に被害に合わないために危険な人間から離れることは手放しで奨励される。加害的な者がまた弱者の一面を持つのならば、それは弱者の排除であると言えるだろうか。

この問題には様々な事例が考えられる。単純な話で言えば比喩としても現実としても、危険な街路を夜に一人で歩くようなことでもある。または、時として保護が必要な人物が周囲の人に有ること無いことをいって集団を混乱させ個人に迷惑を与える場合もある。LINEグループから外されたりすることはままあるだろう。相対的に、なにか手当されないとならない人物であるかもしれないけれど、手立てを考えようもないので触らぬ神に祟り無しとなることが多い。

このように、加害性のある弱者は社会的にも個人的にも困難な存在である。だからこそ、社会全体で考えていかなければならないというのは当然のことだろう。しかし、どういう風にその考える場面を作っていくかは、語りようがないほど難しい。

いじめや加害的な弱者の問題に対して、虐められていた者が「いじめられるほうにもまた、その理由はある」というつぶやく場合もある。その言葉じりだけで過剰に叩かれるのも特徴的だ。口をふさがれがちな「いじめられるほうにもまたその理由がある」もまたいじめを考える問いかけになっていると思う。それを塞ごうとするならば、やはり全体で考えていこうというモットーはモットーでしかありえないんだろうなと思う。

あってはならないことがあってはならないのは当たり前だが、許さない、社会全体で考えていかないとならないと言いながらも口をつむぐしかないのが現状であろう。

 

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2023/07/07

モテについて考える2 コミュニケーションのコツと注意点


 こんにちは、ひきこもりのブログの管理人です。前回の記事では、相手に好感を持ってもらうためのノンバーバルコミュニケーションとリラックスした見た目について考えました。今回は、相手と良い関係を築くためのコミュニケーションのコツについて考えてみます。これらは、自分の印象や関係に影響します。自分の経験や学習から気づいたことを話したいと思います。前回の記事は末尾にあります。


 ノンバーバルコミュニケーション

ノンバーバルコミュニケーションとは、声のトーンや表情やしぐさなどで相手に印象を与えることです。これは、話す内容よりも話し方や見た目が大きく影響することがあります。例えば、同じ言葉でも笑顔で言うか無表情で言うかで印象が変わります。

ノンバーバルコミュニケーションで好感をあげるには、リラックス感やこなれた感じを出すことが必要です。これは、自分が楽しく話していることや自分が話すことに自信があることを示します。リラックス感は、声が高くならず落ち着いていることや話す速度が速すぎず遅すぎずであることです。こなれた感じは、表情が豊かで笑顔が多いことやしぐさが大きすぎず小さすぎずであることです。相手にも楽しさや信頼感を与えることができます。

例証:あなたが好きな人に「今日はどうだった?」と聞かれたとします。あなたは「まあまあだった」と答えます。このとき、あなたが笑顔で答えると、相手はあなたが楽しく話していると感じて、会話を続けやすくなります。しかし、あなたが無表情で答えると、相手はあなたが興味がないと感じて、会話を切り上げやすくなります。

リラックスできるようになるには、練習や恋愛以外での感情面のセーフティネットや失敗を恐れないことが必要です。練習は、自分の声や表情やしぐさをチェックして改善することです。セーフティネットは、自分を支えてくれる友人や家族などの存在です。失敗を恐れないことは、自分が完璧でなくても良いと受け入れることです。

他の人間関係

他の人間関係とは、恋愛以外の友人や家族などの関係です。これらの関係は、自分に大きな間違いがなければそうそう人には嫌われていないという実感を持つことができます。これは、自分に自信を持たせる効果があります。

他の人間関係は、相手に自分の魅力や信頼を証明するものだと私はおもいます。これは、自分を魅力的に見せるために有効です。例えば、「私はこんな友達がいます」という話をすることで、自分が社交的で面白い人だという印象を与えることができます。

例証:あなたが新しい人と話す機会がありました。その人はあなたに興味を持っています。あなたは「私はこんな友達がいます」という話をします。その話には、あなたが友達と楽しく過ごしたエピソードや友達からの評価や感謝の言葉が含まれています。このとき、相手はあなたが社交的で面白い人だという印象を持ちます。しかし、あなたは「私は友達がいません」という話をします。その話には、あなたが友達と疎遠になった理由や友達からの批判や裏切りの言葉が含まれています。このとき、相手はあなたが孤独で不幸な人だという印象を持ちます。

しかし、他の人間関係は、利用するものではなく、楽しく幸せに生きるためのものです。私はこれらの関係が新しい人と話すときに有用だと思いますが、それを攻略法として言うことは感心されないことを知っています。

フィルタリングしたりされることの成立性

フィルタリングとは、相手や他の人を一般化して判断することです。例えば、「同性の友達がいない異性は注意しろ」とか「年下の異性は浮気しやすい」とか「同じ職場の異性はトラブルになる」とかです。これらは、相手や他の人を個人として見ずに、パターン化してフィルタリングしています。

私たちは、相手や他の人をレッテル貼りすることはよくないと分かっています。しかし、自分に合う人や自分に良い人を選ぶために、フィルタリングすることは避けられません。私がフィルタリングしないとしても、他の人からフィルタリングされることはあります。パターンで見ることを一切しないというのは難しいです。フィルタリングは受け入れるべき問題なのでしょうか。私は一人ひとりをよく見てほしいと思いますが、それよりも先に、フィルタリングで落とされることがあるのは、仕方がないのかもしれません。

以上が、コミュニケーションにおけるコツと注意点について考えてみた内容です。コミュニケーションにおいて大切な要素は、敬意や理解やバランスや安定だということが分かりました。これらの要素を高めるためには、ノンバーバルコミュニケーションや自己肯定感や他の人間関係やフィルタリングについてもっと学ぶ必要があります。これからもコミュニケーションの学習に励んでいきたいと思います。

過去の関連記事

モテについて考える その1 自然体編 https://hikikomorilife55.blogspot.com/2023/06/blog-post_33.html

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2023/07/06

ふだん聞き役でいる私がブログで練習している書き方


  私は話すよりも聞く方が得意です。相手の話にうなずいたり笑ったりするのは上手だと思います。でも、話すのは苦手です。物事を深く考える癖があるので、ときどき相手に誤解されることがあります。それで相手を困らせないように、聞き役に徹しています。


最近はブログの文章を書いてAIにチェックしてもらっています。ネガティブな言葉遣いの癖を直そうと思っています。この練習は効果があると感じています。文章を訂正しながら、過去の失敗を反省することも多くなりました。

ただ、AIによるチェックで修正を繰り返すと、自分の思っていることと違ってきます。私はブログを書くのは、コミュニケーションについて自分なりに考えるためです。Twitterなどで見るコミュニケーションの方法は参考になりますが、私には合わないこともあります。

自分の考えを伝えるために、シニカルさを抑えてわかりやすく書くことに挑戦しています。AIに修正された文章のように話せたらいいですね。そうすれば言いたいことも言えて、相手にも通じる言葉を使えると思います。

でも、ブログで書くような話題は普段話すことがありません。コミュニケーション自体がテーマだったりしますから。コミュニケーションを話題にするとどうしても見下ろし視点になりますよね。
そうした話が好きだと見られて難しい話題を振られると困るからです。ブログだけで十分かもしれません。そんなことを思いながら、今日もキーを打っています。


皆さんはコミュニケーションについてどう思いますか?私のブログを読んで感じたことやコメントがあれば教えてください。

 

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2023/07/04

うつになるとどうなる?私の場合はこうです

 

昼寝


こんにちは。私は数年前からうつ病になりました。それ以来、私は色々なことを感じたり試したりしてきました。この記事では、私がうつになるとどんな風に変わってしまったか、そしてどんな風に対処してきたかをお話しします。


自分のやる気や能力が低下する

わたしの場合、うつになると、やる気や能力が低下します。例えば、仕事や勉強の成績が下がったり、家事や趣味をから遠ざかります。それと、社交的に人の期待に沿う返答内容を吟味するのもいつもよりもやりにくいです。社交的にやりたいと思っていてもですね。そんな時は人目を避けがちになります。

心配してくれる会話よりも無難な会話がありがたい


気にかけてくれる会話はありがたいです。特にありがたいのは、心配して状況を問いかけてくれるよりも、目の前の物に対しての無難な会話です。「これ美味しいよね」や、「二郎系って行ったことある?」「昔のテレビ番組を覚えてる?」とかですね。つっかえずに会話できている事実がなぐさめになります。

ブログを書くことで自分の感情や考えを整理する


このブログでは、うつ病の経験者として、自分の感じ方や対処法をシェアしています。うつ病は一人で抱え込まないでください。専門家や信頼できる人に相談することが大切です。私もまだ完全に回復したわけではありませんが、わたしはブログを書くことで、自分の感情や考えを整理しています。読者の皆さんも、自分に合った方法を探してみてください。

以上、私がうつ病になって変わったことでした。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

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2023/07/01

周りの人との距離感について考えてみた

 

道具屋

こんにちは。私はひきこもりの当事者として生活しています。今回は、ひきこもっている方と家族や支援者や友人などの周りの人との距離感について、体験談から考えたことをシェアしたいと思います。


周りの人というと、家族や支援団体や医療関係者などが思い浮かびます。それぞれの人とは距離感が違いますし、職業的な立ち場や役割によって言えないことや配慮しなければならないこともあると思います。わたしは、家族や支援者から助けられたことは自覚していますが、別の距離にいる人の何気ない言葉にも影響を受けることが多いです。

ひきこもり当事者としては、家族や支援者から「配慮の足りない言葉に傷ついた」という経験をしたことがある人も多いと思います。そうした経験があると、配慮の足りない言葉に対して敏感になったり、相手の配慮を見張ったりするようになります。それは、相手にマニュアル通りの対応や言葉を求めてしまうということでしょうか。

でも、そうすると自分も相手も本音や感情を表現できなくなったり、聞き取れなくなったりすることにもつながりますよね。
このように配慮を求める時には、自分が望むような対応や言葉があらかじめ決まっていると思っていて、相手がそれに合わなければ不満や不信感を抱くという姿勢が自分の中にあると言えるかもしれません。
 

 何気ない言葉が持つ力
しかし、家族や支援団体や医療関係者だけがひきこもりの周りの人ではありません。ネットゲームのフレンドや働き出したときの同僚や友達なども周りの人です。彼らは前述の人たちほど配慮する責任もありませんし、配慮の意識も低いかもしれません。それは彼らが悪いというわけではありません。

私は最近、そういう人たちの何気ない言動が効果を発揮し、学びになることがあるのではないかと思うようになりました。

私には私なりの考え方がありますし、それを尊重してほしいと思っています。ただ自分でも分かっていますが、一般的に見れば尖っている考えもあって、あまり不用意に話題にしたり議論したりするべきではない事でない物もあると最近は思っています。
 

ある時、友人から渋い顔をされたり、「そんな考え方は全然受け入れられないよ」というような、辛抱強くなさそうな率直な反応を受けました。その時、「確かにそうだろうな」と納得しました。
支援者などの職業的な役割の方には寛容さを求めてしまいがちですが、ああ、これがもっと率直な人の反応なのだと気づかされました。
友人は私を批判したり否定したりするつもりはなく、ただ自分の考え方や感覚を正直に伝えているだけです。それは私の考え方や感覚に刺激を与えたり、別の可能性を示唆したりする力があります。それは、前述の人々の配慮や助言にはないものだと思います。

その他にも、こんなことがありました。労働を急がせるのはタブーだというのは、ひきこもり支援のマニュアルに書いてあることでしょうし、痛い目にあったことのある当事者としては、支援者がそうしたマニュアルから外れることには警戒しています。

でも、水平に近い立場の人は、「もう少し気軽に働いてみたら?」とか言ってきます。そういう常識的な言葉は、無理解であったり痛いところを突かれるとひきこもり当事者として困ってしまうことも多いでしょうが、援助の立場の人に同じことを言われるよりも怒りにくいですよね。

そこで、「確かにそうかもしれない」と考える視点も持てます。働けないなら働けないで、それを掘り下げられないように会話の上で立ち回るとか考えるわけです。要するに、支援者に求めるような期待を別の立場の人に求めるのをやめて、他の人との関係から新しい見方や考え方を見つけられるのではないかと思います

また、私がひきこもっていることを知っている人に「君の話には人と遊びに行ったりみたいな話がないね」と言われて、それはひきこもっているから当然だろうとその時は私はムッとしました。

でも、それはそれで、一つの関係だけでなく相対化できるようにもう少し付き合いを広げた方が良いのかもしれないと思うようになりました。彼らは私を孤立させたり見下したりするつもりはなく、ただ自分の経験や楽しみを共有したいだけです。それは私の経験や楽しみを広げたり、別の生き方を示唆したりする力があります。それは、前述の人々の配慮や助言にはないものだと思います。
 

 周りの人との距離感を見つけるには


ひきこもりの周りの人との距離感は、難しい問題ですが、私はさまざまな人との関係を通じて学びや気づきが得られることがあると感じています。自分に合った距離感を見つけるためには、自分の気持ちや考え方を素直に伝えたり、相手の気持ちや考え方を尊重したりすることが大切だと思います。

また、ときには自分だけで悩んでしまわないように、信頼できる人に相談したり、専門的な支援を受けたりすることも有効だと思います。

このブログ記事では、私がひきこもりの周りの人との距離感について考えたことをシェアしました。皆さんもぜひコメント欄でご意見やご感想をお聞かせください。最後までお読みいただきありがとうございました。

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2023/06/30

ひきこもりという言葉について考えた

注文中


私はひきこもり当事者です。ひきこもりという言葉は、社会的な現象を表すために作られたものであり、個人のアイデンティティを反映するものではありません。

しかし、この言葉は私たちの生活や感情に大きな影響を与えています。この文書では、ひきこもりという言葉の意味と使い方について考えてみたいとす。


まず、ひきこもりとは何でしょうか。ひきこもりとは、仕事や学校に行けず、家に籠って家族以外と交流がない状態の人を指す言葉です。しかし、ひきこもりの定義は、様々な機関や研究者によって異なります。一般的には、「6カ月以上社会参加をしない状態が持続すること」、「他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいこと」、「年齢や性別に関係なく発生すること」などが条件とされます。


次に、ひきこもり状態にある人々は一様ではありません。その原因や背景、性格や嗜好、外出の頻度や範囲などによって様々な特徴を持ちます。

ひきこもり状態にある人々は自分たちを一つの集団として認識しているとは限らないので、「われわれひきこもりは」という表現や、ひきこもりは〇〇であるという一般化は便宜的なものとしては意味が通じますが、ひきこもり状態にある人々の多様性や個性を尊重しながら言うと、少し矛盾する言い回しかもしれません。



最後に、ひきこもりというカテゴリに属する人々は、それぞれ自分自身をどう捉えているか、どう表現したいかが異なります。そのため、ひきこもりという言葉を使う際には、その背景や文脈に注意して、相手の気持ちや立場を尊重する必要があります。呼び名について摩擦を起こしそうなときには私が後ろに退こうと思います。

私はカテゴリに囚われていることを露呈しないようにしたいです。カテゴリに囚われるというのは、自分や他者の存在や状態を一つの言葉や概念に限定してしまうことで、その言葉や概念によって自分や他者の可能性や選択肢を制限してしまうことだと思います。

 

 以上が私の考えです。ひきこもりという言葉は、私たちの生活や感情に大きな影響を与えていますが、それだけでは私たちを表現できないことを忘れないでください。私たちはひきこもりというカテゴリに属するかもしれませんが、それ以上に個人として尊重されるべきです。この文書が少しでもお役に立てれば幸いです。ありがとうございました



追記 ひきこもりの公の定義も若干揺れ幅があるようでややこしいと思います。「他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいこと」というのは医療者が医療行為の濫用を防ぐために設定した言葉ではあると思うのですが、実情としてうつや統合失調でのひきこもり状態もひきもりに入ってたりしますので。


厚生労働省は、「ひきこもりとは、様々な要因の結果として、社会的参加を回避し、原則的には6か月以上にわたっておおむね家庭内にとどまり続けている状態」と定義しています。


内閣府は、「ひきこもりとは、仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外と交流がない状況またはそうした生活をしている人を指す」と定義しています。
 

一般社団法人日本ひきこもり協会は、「ひきこもりとは、20代後半までに問題化すること、6カ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続すること、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいこと」と定義しています

これらの定義を比較すると、ひきこもりの年齢や期間、精神障害の有無などについて異なる見解があることがわかります。また、ひきこもりの原因や背景についても、不登校や職場問題、統合失調症や発達障害など様々な要素が関係している可能性があります。

したがって、ひきこもりという言葉を使う際には、その背景や文脈に注意して、相手の気持ちや立場を尊重する必要があると思います。



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注文中3

2023/06/28

このごろ「暗黙の了解」について考えています

野外で調理


わたしは日本人の男性で、男性の集団には暗黙の了解が存在するということに興味を持っています。
興味をもったきっかけは新しい環境になかなか馴染めなかったり、摩擦が大きいことでなやんだことがきっかけでした。
暗黙の了解とは、言葉にしなくても当事者の間で理解されている様子のことです。

わたしは男性の集団における暗黙の了解の例として、序列やコミュニケーションのスムーズさ、ワリカンや公平さなどに気がつきました。暗黙の了解はリスク回避やメンバーの選別に効果があると想像していますが、信頼や協力を高める効果もあると思っています。


暗黙の了解とは、言葉にしなくても当事者の間で理解されている様子のことです。「不文律」ともいいます。法律で決まっていなくても「守るべき」とされているマナーや常識なども「暗黙の了解」にあてはまります。

暗黙の了解の例としては、日常生活では公共交通機関や図書館などでのマナー、ビジネスでは電話や食事などでの礼儀作法、スポーツでは点差が開いている場合の行動などが挙げられます 。

男性の集団には暗黙の了解が存在するということを実体験から感じています。暗黙の了解とは、言葉にしなくても当事者の間で理解されている様子のことです。私は男性の集団における暗黙の了解の例として、以下のようなものを挙げます。


- 序列:男性の集団では、年齢や職位、経験などによって序列が決まり、それを変えようとすると抵抗にあいやすいことです。序列は、権力や責任、敬意や礼儀などを規定するもので、上位の者は下位の者に指示やアドバイスをしたり、下位の者は上位の者に従ったり敬語を使ったりすることが期待されます 。
- コミュニケーションのスムーズさ:男性の集団では、会話や交流を円滑に進めるために、相手の話に同意したり賛成したりすることが多いです。例えば、服を買った、車を買ったという話に対しては「いいね!」と返すことが一般的です。他者が別の選択肢があったことをわざわざ言うと、話がスムーズではなくなります。また、自分の意見や感情をあまり表現しないこともあります 。
- ワリカンや公平さ:男性の集団では、食事や飲み会などでお金を払う際にはワリカン(割り勘)することが多いです。しかし、ワリカンは単純に数字を割るだけではなく、相手の負担や面倒を考慮することもあります。例えば、家に招かれて会食する場合は手土産を持っていったりワリカンの負担を減らしたりします。また、細かく計算することは嫌われがちで、ざっくり数字をまるめることが暗黙の了解になっています 。
- 面倒見:男性の集団では、上位や先輩などは下位や後輩などの面倒を見ることが求められます。面倒見とは、指導や助言だけでなく、気遣いやフォローも含みます。例えば、新人や若手に仕事を教えたり、失敗した時に叱ったり励ましたりすることです。また、下位や後輩などは上位や先輩などに感謝や尊敬を示すことが期待されます 。


また男性の暗黙の了解はその集団の構成によっても変化していくのではないかとわたしは思っています。

序列をめぐるやりとりがトラブルの元になりやすいです。それは裏を返せば、序列を守る暗黙の了解が存在していることを意味します。
序列の移動がありえるので相互に誇示することが繰り返されます。それはくたびれる話ですが。

一定以上の年齢になれば、様々な経験をつみ、経験が異なる人と関わったり、こどもを育てたりして人が変わったり変えられないことも見えてきます。
自覚的に伸びしろも見えてきますし、互いに相対化もしやすくなってきて誇示は減ってきます。
自分が上位や先輩であることを強調することが減り、それによって男性同士の関係はより対等で協力的で友好的になるかもしれません。

平均年齢があがれば暗黙の了解は寛容側に振れると考えています。
若いころに集団に馴染めずうまく行かなかった人も、歳を取ったらあんがいすんなりとやれるようになれるかもしれません。


おわりに

わたしは暗黙の了解の是非よりも、人の集団を理解するために自分に気づけることがあるかに関心をもっています。

暗黙の了解についての是非はともかく、人を知ることや、人間関係を良くするためにしっておきたいことだと思っています。
実践したり考えてみることはこれからも続けたいです。


追記

暗黙の了解は苦々しく思う方もいらっしゃるでしょう。すみません。

しかし、空気読まない人たちの集団だと言っても、本当に暗黙の了解がないと言えるでしょうか。

暗黙の了解を否定するより、存在するものとして確認し、衝突を避けたいです。



参考記事 外部リンク(新しいウィンドウが開きます)

第4回 「暗黙の了解」とソーシャルスキル | Let’s start ソーシャルスキル | みつむら web magazine | 光村図書出版
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/jugyou/social/vol04
この記事は、ソーシャルスキル教育に関することを、荒畑美貴子先生(元 三鷹市立第二小学校教諭・NPO法人TISEC理事)がご紹介するシリーズの一部です。この記事では、「暗黙の了解」とは何か、それが身につきにくい子どもに対してどう接するか、集団が一人の課題を支えていく例、身につけさせるコツなどについて解説しています。


紳士協定 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B3%E5%A3%AB%E5%8D%94%E5%AE%9A
紳士協定とは、国家や団体、個人間における取り決めのうち、公式の手続きや文書によらず、互いに相手が約束を履行することを信用して結ぶものをいう。例えば、ドイツの自動車メーカーは最高速度を250 km/hで制限するという紳士協定を結んでいる。しかし、紳士協定は破られることもあり、スポーツやビジネスなどでトラブルの原因になることもある。


「暗黙の了解」の意味とは? 会社での具体例や無くし方、英語や類語も紹介
https://news.mynavi.jp/article/20230512-2652966/

その一方で「暗黙の了解」があしき習慣になっているにもかかわらず、引き継がれていることもあります。この場合、「暗黙の了解」を改善すべきだと思うかもしれません。

ただし、独りよがりに突然「暗黙の了解」を無くす動きをすると、あなたが孤立したり、問題視されたりするかもしれません。周囲の人の意見を聞いたり、協力を求めたりしながら、徐々に改善を図れると理想的でしょう。



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2023/06/25

支援の居場所で起こった一件と自分の思い

キッチンでカップラーメンをつくる青年



この記事は、支援の居場所でのミーティングで女性に対して距離感の近い男性当事者に注意したことについて、自分なりに考えたことを書いたものです。私はひきこもりであり、この問題について葛藤があります

 私はこの記事を書くきっかけとなったことをまず紹介します。私はソロキャンプの女性に話しかけることについて、自分なりに考えた記事をブログに書きました。この問題については、ネット上で物議を醸している強い調子の記事がありますが、私はその記事に賛否両論があることを知っています。私はこの問題について、自分の考えだけでなく、他の人の意見や事例も参考にしました。
(末尾に過去の記事のURLがあります)

わたしはその記事を書いたあとに、
支援の居場所でのミーティングで女性に対して距離感の近い男性当事者に注意したことについて葛藤があることを思い出しました。

私は支援の居場所でのミーティングで女性に対して距離感の近い男性当事者に注意したことについて、以下のように考えています。

- 私は自分が利用しているサービスの秩序状態が崩れるといやだなと思って注意しました。その後スタッフに引き継ぎ男性利用者も納得して行動もかわり丸く収まったので結果オーライではあるのですが、自分がさしでがしいことをしたという気持ちもあります。
- 私はそういう場所のミーティングでは傾向としてスタッフは女性に対し厚く配慮しがちな事が気になっています。私も男性なのですが、男性当事者はあまりスタッフから大事にされていない感じがして不憫だなと思いがちです。
 
- 私は自分の感情の立ち位置からすると、女性利用者に傾斜配分されがちで取り残されて不憫に見える男性参加者を悪者にしたくないんですよね。ありのままはちょっと居心地はわるいんだと思いますが。

- 私は彼の距離感の近さも意識しての行動ではないと思います。それは彼の個性や環境や経験などによるものだと思います。困るには困るんだけど悪いことだとするのはちょっと違うんですよね。
- 私は利用者でありながら割って入ったのは自分にとっては負荷が大きいことをしたかなと思います。何をするかは立場によって違います。そうした支援の場でのミーティングということならばスタッフが秩序を管理し場を回す比重が高いですし、同好会的なフラットに近い場であったら、じぶんもできることはしようとか立ち位置によっても違います。

- 私は今は例えば小さい集団があるなら、トラブルがあったときに誰にでも話せる程度に仲介役が出来る程度でいようと思っています。ちょっと困った人を集団がなるべく放逐しないように働きたいとは思っています。ただそれも私のおよぶ範囲でですね。被害感情を受けてもういやだと思う人に大目に見てやってとは言えないので。
- 私は出来る範囲では心を砕こうと思いますが無理はできないので、結果的にはなるようにしかならないのだなと思っています。少しネガティブな言い方になってしまいましたが。それがやりすぎないための私なりの考えです。

まとめ

私は支援の居場所でのミーティングで女性に対して距離感の近い男性当事者に注意したことについて、自分なりに考えたことを書きました。私は自分の立場や感情、相手の立場や感情、場の雰囲気や秩序など、様々な視点から問題を考えました。私は支援の居場所があることは素晴らしいことだと思いますが、トラブルや問題が起こることも避けられないことを知っています。私は自分の限界や役割を認識しながらも、ちょっと困った人を放逐しないように働きたいと思っています。

過去記事

ソロキャンプの女性に話しかけることに賛否両論? ネットで見た記事を読んで感じたこと
https://hikikomorilife55.blogspot.com/2023/06/blog-post_25.html


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ソロキャンプの女性に話しかけることに賛否両論? ネットで見た記事を読んで感じたこと

ソロツアラー

この文章はネットの炎上を目にし、コミュニケーションに対して萎縮した人を対象に書きました。

ソロキャンプの女性に話しかけることはどうすべきか? この問題について、最近ネット上で物議を醸している強い調子の記事があります。その記事は、ソロキャンプ中に男性から悪質なナンパ被害に遭う内容の動画をもとに、「男性は女性にとって、ゴキブリとハイエナを足して二で割ったようなものに見えていると思っておくくらいが丁度いい」とあえて過激な言葉で注意喚起を行っています。この記事は、多くの人から「正論過ぎる」「気持ちいいまでの論破」と賛同される一方で、「過剰な警戒だ」「話しかけること自体を否定するのは不自然だ」と反発されるなど、賛否両論を巻き起こしています。私はこの問題について、自分なりに考えてみました。


ソロキャンプの女性に話しかけることはどうすべきかという問題について、私は以下の3つの観点から考えてみました。

- 不安になる人を避けること
- 不安にさせないような振る舞いをすること
- 話しかけること自体をやめさせること

私は、不安になる人を避けることは自分の安全のためにも必要だと思います。ソロキャンプ中に酔っ払った男性に絡まれたり、深夜に見知らぬ男性に声をかけられたりするような事例があるからです。誰でも防犯意識を持つべきだと思います。

また、人に避けられると悩む人に対しては、不安にさせないような振る舞いをすることが大切だとアドバイスする必要もあるかもしれません。しかし、アドバイスする際には相手を不快にさせないように気をつける必要があります。アドバイスする側が完璧にできるわけではありません。不安になるかどうかは相手次第です。

最後に、話しかけること自体をやめさせることは過剰な警戒だと思います。話しかけること自体が悪いわけではありません。キャンプ場は公共の場所であり、キャンパー同士のコミュニケーションは楽しいものです。もちろん、相手の様子やタイミングを見て話しかけるべきですが、話しかけることを禁止することは不自然で不愉快です。

以上のように、ソロキャンプの女性に話しかけることについては、自分の考えだけでなく、他の人の意見や事例も参考にしました。しかし、その際には記事や伝聞に対するバイアスに注意しなければなりません。

この問題は性別や年齢などの属性によって受け取り方が違うかもしれません。今回の記事は女性が被害者で男性が加害者という属性を持った人を扱っていますが、それがすべてではありません。

記事や伝聞を受け取る側のバイアスによって非難される対象が変わるかもしれません。

例えば、ソロキャンプの被害者が男性で加害者が女性だった場合、記事のあり方や被害者・加害者への対応が違ってくるかもしれません。これは男性は加害する性質を持つという偏見があるからです。

このようなバイアスを防ぐためには、記事や伝聞を扱う際には客観的で公平な表現を心がける必要があります。

さいごに
ネットには様々な意見があり、時にそれはコミュニケーションを萎縮させるような気持ちに働かせます。話さない方が無難だとすることでコミュニケーションから後退することを示唆しています。


しかし、私は話しかけること自体は悪くないと考えます。相手の気持ちや状況を考慮しながら、礼儀正しく丁寧に話しかけることが大切だと思います。

また、ネットはしばしば極端な意見が飛び交います。ネットでの白熱した意見に惑わされず、日常での常識感覚を大切にすることも考えませんか。

 

 

参考記事 外部リンク(新しいウィンドウが開きます)

ソロキャンプ中のナンパ被害は自業自得? 日本単独野営協会の声明が「正論すぎる」と話題
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fbeca2ebd255f4822f93af034976675f6a4a247

この記事は、女性がソロキャンプ中に男性から悪質なナンパ被害に遭う内容の動画が拡散されたことについて、ソロキャンプの普及を目指す任意団体「日本単独野営協会」がSNS上に声明を発表したことを報じています。声明では、「男性は女性にとって、ゴキブリとハイエナを足して二で割ったようなものに見えていると思っておくくらいが丁度いい」とあえて強い言葉で注意喚起を行っています。この記事は、2万件を超えるリツイート、4万件以上のいいねを集めており、「正論過ぎる」「気持ちいいまでの論破」と大きな話題を呼んでいます。

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