観客席の話
『みいちゃんと山田さん』『地元最高!』『ウリッコ』。このあたりの漫画には、共通した感触がある。人物を、家庭環境、認知のかたより、貧困、搾取、福祉につながれない事情、といった補助線で読ませてくるところです。読めば「たしかにそう見える」と頷ける。頷けるのだけれど、同時にどこか、座り心地のいい椅子に案内されているような気もします。
今日はその椅子の話をします。
判定席
こういう作品を読んでいるとき、読者は単なる目撃者ではない。もう少しいい席をもらっている。
この人はなぜこうなったのか。誰が搾取する側で、誰がされる側か。どこで人生が折れたのか。どこで別の手を打てば助かったのか。——それが「分かる」位置に、読者は座らされている。しかも家庭とか認知特性とか福祉とかの語彙で裏打ちされているので、単なる覗き見ではなく「社会を理解している」感じまで付いてくる。人物評をしているのに、勉強をしている気分になれる。
これを判定席と呼んでみます。座り心地は、正直かなりいい。
念のため言っておくと、この見方自体が間違っているとは言いたくない。家庭環境も貧困も、実際に人生を左右する。補助線としては有効です。ただ、補助線に頷けることと、それ一本を自分の世界観として採用することは、別の話かと思います。人は一つの見え方だけで人生を過ごせるわけではないので。
軍師席
判定席には、もう少し前のめりなバージョンもある。
『火垂るの墓』の雑談を思い出してみてください。清太は叔母の家を出るべきじゃなかった。意地を張らなければ助かった。もっと働けばよかった。節子のために我慢すべきだった。——ネットで何度も見た光景ではないでしょうか。
これは要するに「自分ならこの破局を回避できた」という遊びです。結末を知っている観客が、安全な場所から最適解を並べる。将棋の感想戦を、指してもいない人がやっている。軍師席と呼んでおきます。
これも、娯楽としては別にいい。私もやる。ただ一つだけ確認しておきたいのは、この軍師視点、自分の人生には使えないということです。自分の番になると、情報は足りないし、感情は絡むし、体力にも限りがあるし、先の展開は分からないし、分かっていても選べなかったりする。観客席から盤面がよく見えるのは、盤面に自分の駒がないからだと思います。
立法者席
軍師席の奥には、さらに上等な席がある。
こういう作品は、家庭・孤立・搾取といった因果が読者に分かるよう整理されているので、「ここで支援につながっていれば」「行政がもっと早く介入していれば」と、政策を連想しやすい。登場人物ひとりを動かす軍師席から、社会ごと動かす立法者席への昇格、という感じでしょうか。
しかも立法者席は、SNS上での見栄えがいい。ただの野次馬ではなく、社会問題を考える人として発言できる。だから盛り上がりやすいのかもしれません。
思いつくこと自体はいい。ただ、現実の政策は物語の主人公ひとりのためには作れません。事情の違う大量の人、予算、誤判定、副作用、本人の意思。作品は「なぜこの人は救われなかったか」を考える入口にはなっても、答えの側までは連れて行ってくれない。入口で答えた気になれるのが、この席の甘いところかもしれません。
ここから先は、今まさに起きている話
ここまでは、作品と席の一般論でした。ここから先は少し違う。今、実際に起きている話をします。
『みいちゃんと山田さん』のアニメ化をきっかけに、ここ最近、Xで「露悪」という言葉が飛び交っています。私は見出し程度にしか追えていないのだけれど、批判の骨子はこういうことでしょう。現実の醜い部分をわざわざ選び、強調し、因果をきれいに整えて、見世物として気持ちよく出している——嘘だから駄目なのではなく、事実の選び方と並べ方で現実を歪めている、という批判です。
そして「露悪」の隣には「悪趣味」という言葉もあった。少なくとも今回のこの話題の中での使われ方を見るかぎり、この二つは矛先が違う。露悪は作品の切り取り方への批判。悪趣味は、それを面白がっているお前は何なんだ、という観客への判定に近い。
つまり、ここで初めて舞台ではなく客席に照明が当たった。さっきまで判定席や軍師席に座って作品を判定していた側が、今度は判定される側に回っている。
法廷
照明を当てられた観客は、どう答えたか。
擁護側はこう言いました。見えにくい現実を可視化している。実在する社会問題を描いている。問題提起として意味がある。——なかなか立派な弁護状です。批判側は、真実を歪めていると検察をやる。こうして論争は「この作品は現代社会の真実を正しく語っているか」という法廷になっていく。
ここで一つ面白いのは、批判側もあまり「嘘だ」とは言っていないところです。むしろ、よく当たっているからこそ危ない、という組み立てになっている。そのうえで、制度や支援の話が足りない、責任が本人の特性に帰されている、もっと真面目に描くべきだ、と言う。つまり批判側は補助線を否定していない。もっと上等な補助線を引けと言っている。そうすると、批判側は「不十分に有用」、擁護側は「十分に有用」で戦っていることになる。争点は、作品が有用かどうかではなく、有用性の量だけです。
でも、擁護の底には、もっと雑な楽しみも混じっているのではないか。悲惨な人物や嫌な人間関係を、安全な場所から眺めて、見抜いた気になれる。それが娯楽として面白い。——そういう部分も、正直あるのではないでしょうか。
なのに、なぜ誰もそう言わないのか。言えないからです。「人の苦境を見抜く快楽として楽しみました」と正直に陳述すると、自分の冷たさが法廷に露出する。だから代わりに社会的意義という弁護状を書く。批判側も批判側で、作品を裁くことで「自分は弱者を見世物にする側ではない」と表明できる。よく見るとこの法廷、全員が作品の話をしながら自分を守っている。
一応言っておくと、当事者に近い人がこういう作品を忌々しく思う瞬間は、当然ある。娯楽はしばしば当事者に対して不遜です。その感情は本物だと思います。ただ、その感情だけで、この作品はあってよい・いけないまで決まるわけでもない。それに、そもそもドキュメンタリーですら何を撮って何を切るかで創作的です。架空の漫画が真実の代表権を持たされるのは、荷が重い。
作品は真実そのものではなく、真実らしさを材料にした、多少不遜な娯楽です。だから好きでいいし、嫌いでいい。ただ、丸ごと現実として飲み込む必要はない。
居酒屋のほうの話
ここまでずっとXの話をしてきましたが、同じことはもっと小さい場所でも起きている。
悪趣味な作品を楽しむのは、別に悪いことではない。実際、多くの人が知っている楽しみです。「あれえげつなくて面白かったね」「わかる」——ここまでは、たいてい成立する。
ところが「どこが?」に答え始めると、少し様子が変わってくる。破滅していく過程の因果がきれいに見えるところ、とか、自分は絶対そちら側に行かないという安全圏から眺めているところ、とか言わざるを得なくなる。すると相手は、作品の話を聞いていたはずが、目の前にいる人間の冷たさの説明を聞かされていることになる。作品評の形をした、かなり重い自己紹介です。
不思議なのは、順番が逆になっているところです。普通、説明すれば分かり合えるはずでしょう。ところがこの手の楽しみは、説明した瞬間に共有が壊れる。理由まで降りると、話題が作品の性質から観客の位置へ移ってしまうからでしょうか。
Xで刺さる相手は抽象的な「当事者」ですが、居酒屋では隣に座っている。距離が違うだけで、話している内容は同じです。
だから、「もやっと面白かったよ」で止めておくのは、浅さではないのだと思います。あれはたぶん作法です。日常では自然に守られているその作法が、アニメ化という公共の出来事によって使えなくなった。全員が理由を述べる位置に引き出されて、理由を述べれば自分が露出するので、代わりに公の語彙を借りる。真面目顔というのは、作法が使えなくなった場所での代用品なのかもしれません。
席を立つ
まとめます。
この手の作品は、読者にいい席を配ってくれる。人物を見抜く判定席。破局を回避してみせる軍師席。社会を設計する立法者席。どれも座り心地がよくて、座ること自体は娯楽として全然あり——というのは、ここまで何度も言ってきた通りです。
ただし席には、付いてこないものがある。真実の代表権は付いてこない。自分の人生への適用可能性も付いてこない。政策の答えも付いてこない。付いてくるのは、上映時間ぶんの面白さだけです。
だから、弁護状も判決文も書かなくていい。細かい理由も、言わなくていい。
面白かった、と言って席を立てばいい。それで足りているのではないかと思っています。