2026/03/30

ダイエットって結局「なーんもわからん」

 毎日キッチンスケールで食材の重さを量り、数値を計算する。

総カロリーはもちろん、PFC(タンパク質・脂質・炭水化物)のバランスから食物繊維の量まで、毎日きっちり記録をつけている。

我ながら、かなり真面目に数値を管理しているほうだと思う。

でも、そこまで徹底して記録と向き合っているからこそ、最近になって痛感していることがある。

ダイエットをしていると、だんだんこう思うのだ。

**「なーんもわからん」**と。

もちろん、まったく何もわからないわけではない。

「今の維持カロリーから、1日200キロカロリーくらい少なめにしていく」といった方法はよく見聞きするし、急激に食事を削るより無難で、無理をしにくい方針として真っ当だ。

でも、その「200キロカロリー少なめ」が本当にできているかというと……実はよくわからない。




正確な数値は、誰にもわからない

ダイエットをする人にとって、実は**「正しい数値」がわからないことだらけ**だ。

  • 自分の維持カロリーが、ぴたりと何キロカロリーなのか?

  • 今日の消費カロリーは、正確にはどれくらいか?

  • 低カロリーを続けた結果、どれくらい身体が省エネ化しているのか?

  • 食べたもののカロリー計算に、どれくらい誤差があるのか?

日常生活の中で、これらを厳密に把握することはほぼ不可能に近い。

それでも「記録」が無駄ではない理由

では、日々の体重測定や食事の記録は無意味なのだろうか?

決してそんなことはない。

毎日の体重の増減が「脂肪」なのか「水分」なのかはわからない。記録自体はかなり粗いものだ。しかし、粗いからといって無駄とは限らない

日々の体重は「点」としては当てにならなくても、週単位の「線」として見れば、**少しずつ傾き(トレンド)**が見えてくる。

食事記録も、正確なカロリーを確定できなくても、「最近なんとなく量が増えていないか」「間食が荒れていないか」という方針のブレを確認する助けになる。

つまり記録は、正しさを証明するものではなく、進む方向の「傾き」を見るためのコンパスなのだ。

数字以上に大切な「主観」という警報装置

そして、数字と同じくらい、いやそれ以上に大事なのが**「主観」**だと思う。

  • 今日は妙に眠い

  • 同じように食べているのに、空腹感がきつい

  • なんでもないのにイライラする

  • やけにバテる

こうした主観の変化は、体重のようにおおらかに週単位で見ていては手遅れになることがある。主観は、もっと短いスパンで点滅する黄色信号だ。

「このまま行くと身体を壊すぞ」「その前に、同じやり方を嫌になって放り出すぞ」という、破綻の予兆を教えてくれる。

まとめ:わからないなりに運転しよう

ダイエットの記録とは、正解の数値を知るためのものではない。

傾きを見るための「コンパス」と、無理をしすぎていることを知らせる「警報装置」。

そのくらいのものとして使うのが、一番現実的なんじゃないだろうか。

ダイエットは、たぶん私たちが思っている以上に**「なーんもわからん」**ものだ。

でも、なーんもわからんからこそ。わからないなりに傾きを見て、危ない信号を拾って、少しずつ運転していくしかないのだと思う。

2026/03/23

一歩引いてみても、落ち着けるとは限らない

ネットを長く見ていると、定期的に「自分たちを外から観察する」ような話題が目につく。

たとえば、今の自分の学校や界隈の常識は、一歩外に出たら通用しないローカルなものだ、とか。今ちやほやされている人も、別の場所では評価されないかもしれない、とか。いわゆる「メタ認知」というやつだ。

昔はそういう見方に、少し知的な新鮮さを感じていた。
「いま見えている景色がすべてではない」と疑うことは、自分の居場所を相対化するための必要な目つきだったからだ。

でも、長くそんな言葉を見ているうちに、だんだん疑わしくなってきた。自分を外から見ることは、言われるほど万能なのだろうか。

たしかに、物事の構造に気づく役には立つ。あの人たちはどんな前提で話しているのか。この価値観は誰をこぼしやすいのか。一歩引けば、そういうものはよく見える。

けれど、やっかいなのは「見えたからといって、自分が落ち着けるわけではない」ということだ。

世の中には、都市部の競争とは違う、地元や仲間の絆で回っている別の幸せがある。そういう知識を得ることは無駄ではない。「競争で勝つことだけがすべてだ」と思いつめずに済むからだ。

でも、その世界に自分の接点がなければ、観察はそこで終わる。
「なるほど、そういう幸せもあるのか」と理解できても、自分がその輪に入れるわけではない。見取り図は手に入っても、自分の足場ができるわけではないのだ。

そう考えると、僕たちが自分を外から見たくなる本当の理由は、幸福を説明したいからではなく、自分のしんどさの理由を知りたいからなのかもしれない。

なぜ自分はうまく乗れなかったのか。どこで噛み合わなくなったのか。
それを確かめたくて、一歩引いて考える。自分の癖や、無理をしていた場所が見えることもある。

ただ、それで心が救われるかというと、そうでもない。自分のしんどさを、より細かく説明できるようになっただけだ。説明は増える。でも、それだけで居場所が増えるわけではない。

厄介なことに、この自己分析はけっこう面白い。背景にある価値観や、話がずれた原因を順番にほどいていくと、混乱に形が与えられ、何か前に進んでいるような錯覚に陥る。

でも実際には、その場でずっと足踏みしているだけなのかもしれない。頭の中が整理されても、生活が前に進むとは限らない。

だから、自分を外から見る癖のある人に必要なのは、もっと高い視点から自分を厳しく採点することではない。むしろ逆だ。
「これ以上考えても、何かが増えるわけじゃないな」と見切ること。
「観察対象としては面白いけど、自分の居場所じゃないな」と線を引くこと。

一歩引いてみる能力は、自分を追い詰めるためではなく、背負わなくていいものを仕分けるために使ったほうがいい。

……みたいな話を、さっきAIと話していた。

そのあと、重い腰を上げて、たまっていた洗濯物を抱えてコインランドリーに来た。乾燥機の丸い窓の向こうで、シャツとタオルと靴下が、ただぐるぐる回っている。

自分を外から観察することと、生活のために洗濯をしに来ることは、たぶんまったく別の能力なんだと思う。
一歩引いてみても、すぐに人生が楽になるわけではない。でも、とりあえず洗濯物は回しておいたほうがいい。今日はたぶん、そのくらいでいい。

ダイエットって結局「なーんもわからん」

  毎日キッチンスケールで食材の重さを量り、数値を計算する。 総カロリーはもちろん、 PFC(タンパク質・脂質・炭水化物)のバランス から 食物繊維の量 まで、毎日きっちり記録をつけている。 我ながら、かなり真面目に数値を管理しているほうだと思う。 でも、そこまで徹底して記録と向...