2025/08/23

『ここは鴨川ゲーム製作所』──やさしさの抑制と、“見慣れた形”の再構成

 




スケラッコ『ここは鴨川ゲーム製作所』は、一見するとやさしい群像劇に見える。多様な背景をもつ人々が、京都の鴨川沿いの空き家に集い、ゲームを作りながら静かなつながりを育んでいく。その空気は穏やかで、衝突もなく、登場人物たちは皆、互いに丁寧であろうとする。


けれどその“やさしさ”は、実のところ互いに「地雷」を出さず、抑制的に振る舞うことによって成立している。誰もが何かしらの現実的なしんどさを抱えているのに、それを場にぶつけることはない。爆発を避ける緊張が、静かな居心地よさの裏側にうっすらと張りついている。


作中で描かれるゲーム制作も、遊びや熱意というよりは、“誰かと関係をつなぐための手段”として機能しており、作品内で作られるゲームそのものは、正直あまり面白そうに見えなかった。ゲームづくりという題材が、イメージ先行で持ち込まれている印象がある。


登場人物の配置にも、やや都合のよさを感じた。女性キャラたちは、悩みを抱えたり、社会の問題を語ったりする“語り手”として描かれ、その中で多少の未練や矛盾を抱えた“生っぽさ”を許されている。

一方で男性キャラは、モヤっとさせる「社会的圧力」の象徴として機能するか、あるいは繊細で優しい「癒し手」として場を支えるかの両極端な立ち位置に整理されている。

その中間にあるような“悩む人”としての未成熟な描写は少なく、「男性キャラは両極でいろ」という、わりと雑な配置が気になった。

またこの空間では、いわゆる“普通の男性性”──少し鈍感だったり、場の主導権を自然にとってしまったりするような人物像すら入りにくい。カナデさんのようなハイコンテクストな存在がいることで、まともな男ほどむしろ足がすくむ空気があり、「繊細でないなら沈黙せよ」という静かなコードが敷かれている。ある意味では、気を遣う男だけが入場を許される空間でもある。(カナデさんがいる時点で、ちょっとでも鈍い男は最初からアウトな気配がある。たぶん男嫌いなんだろうな、というのが空気で伝わる。)


全体としてこれは、“よつばと!”的な日常描写に、社会の湿り気と構造的配慮を溶け込ませたような作品だと言える。

多様性とやさしさを描こうとした意図は伝わるが、そのために採られた構図には、どこか既視感と抑制のきつさがあった。読みやすさの陰にある“整理されたバランス”が、むしろ印象に残る作品だった。

この作品の“やさしさ”は、衝突を避けるための沈黙と抑制の上に成り立っている。
他の日常系ユートピアよりも、その前提がわずかに“見えるように”描かれているからこそ、読後にうっすらとした緊張が残る。


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