『Sonny Boy』を観た。
静かで、不親切で、誰も肯定してくれない物語だった。
だからこそ、深く沈んで、心に残った。
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主人公たちは異世界を旅して、特別な力を手に入れて、しかし戻った世界には何ひとつ持ち帰れなかった。
誰も見ていない。誰も知らない。
その経験は、本人の中にしか残らない。
ご褒美がない漂流記のような話だ。
主題歌で「ここにいてもいいから」と歌われながら、物語の中でそれが与えられることはなかった。
誰かが肩を抱いて、「君の経験は意味がある」と言ってくれる場面もない。
ただ、孤独のなかに立ち尽くして、それでも自分で歩き出すしかない。
それはまるで、ひきこもりの“あと”のようだった。
支援の世界では、「意味づけ」がよく語られる。
なぜそうなったのか。何を経て、どう立ち直ったのか
理路整然とした“語り”がそこにある。
けれど、そう語れる人ばかりではない。
むしろ、語らないまま、語れないまま、静かに生きている人の方が多いのではないか。
意味づけは、求められれば暴力にもなる。
ぼくは、語らず、語れず、整理せず、ただ抱えて生きていく人たちのことを思う。
あの時間を説明することはできない。
うまくまとめることも、誰かにうなずいてもらうこともない。
それでも、確かにそこを通ってきたという事実だけは、自分だけが知っている。
その記憶と痛みは、証明されることなく、賞賛されることもなく、
ただ、静かに体の奥に残っている。
意味を持たないままにあること。
しかたがない。
『Sonny Boy』のラストで、瑞穂は長良に寄り添わない。
なぐさめもしない。ただ、見ているだけだ。
それは冷たさではなく、信頼だったのかもしれない。
「わかるよ」と言わないことで、
「あなたはあなたで歩ける」と示しているように見えた。
ひきこもりからの“あと”を、誰かに理解されなくても、
慰められなくても、
そのまま背負って、ただ生きていくこと。
それは“回復”とも、“克服”とも、少し違う。
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