2026/06/19

ダイエット維持期の腹持ちについて

維持期というのは地味なものだ。

減量期は体重の数字が動くから、それなりに張り合いがあった。維持期はうまくいっていても何も起きない。成功しているのかどうかもよくわからないまま、日々が過ぎていく。

まあ、それはそれで仕方がない。

いまは細かいカロリー計算はしていない。だいたい普通の食事に戻して、量をほんの少し抑えめにする、というくらいの感覚でやっている。

このところ睡眠が足りていないせいか、日中やたらと腹が減る。調べると睡眠不足で空腹ホルモンが増えるらしい。なるほど食事の問題ではなく睡眠の問題か、と思ったが、睡眠がすぐ改善できるかというとそれも難しい。とりあえず腹持ちのことを少し考えるようになった。

腹持ちでいうと、脂質と食感と、ちゃんとしたおかずがあるかどうか、そのあたりが大きい気がする。白米だけ詰め込んでも、あまり噛まずに食べられてしまうし吸収が早いから、食べたわりにすぐお腹が減る。おいしいんですけどね、白米。

結論としては「ご飯は気持ち少なめにして、おかずでたんぱく質や脂質を取る」というずいぶん無難なところに落ち着いた。

減量期に使っていた低脂肪ヨーグルトや低脂肪乳も、改めて考えると怪しくなってきた。カロリーを数字として削るには意味があったけれど、腹持ちには脂質がある程度必要なわけで、100gあたり10〜20kcalの差を気にして満腹感まで削る必要が維持期にあるのかどうか。まだ使ってはいるが、なんとなく惰性で続けているだけかもしれない。

カレーや丼ものの日はふつうに食べる。あの料理でご飯を小盛りにするのは、なんとなく筋が通らない。そのかわり、そうでもない日のご飯を少し減らしておく。

そのくらいで、まあいいんじゃないかと思っている。


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2026/06/18

再始動に必要なのは、加速よりも「全損にしない」設計かもしれない




最近、再始動について考えることがある。

「今がこれからで一番若い」とか「遅れは取り戻せる」とか、何かを始める話をするとそういう言葉がよく出てくる。前向きな力があるのはわかるし、実際そういう言葉に助けられることもある。

ただ自分の場合、つまずくポイントがちょっとズレていた。

動き出し自体は、意外とできる。最初はゆるく始められるし、「昨日よりできた」「先月より前に進んだ」という実感も出てくる。問題はその後だった。

慣れてくると、今度は効率が気になり始める。せっかくならもっとうまくやりたい。もう少し増やせるかもしれない。関連することも一緒にやった方がいいかもしれない。効率化や拡張を考え始めること自体は自然なことだと思う。

でも振り返ると、自分が崩れるのはいつも動き出しの時期ではなく、軌道に乗った後だった。勢いがついてくると、進むことより速度の管理の方が難しくなる。

それで最近は、「どれだけ加速できるか」ではなく、「どう運用するか」という視点で再始動を考えるようになった。ここでいう運用とは、途中で失速したり中断したりしても、ゼロ地点に戻らないための設計のことだ。

続けていると、必ず何か起きる。疲れることもあるし、飽きることもある。生活が変わることもあるし、単純に体調を崩すこともある。長く続けるほど、その確率は上がる。

そこで大事になるのは、「絶対に踏み外さないこと」じゃないと思っている。多少踏み外しても、それをゼロとみなさないことだ。

たとえば半年続けた後に一か月休んだとしても、半年続けた事実は消えない。「全部無駄になった」と考えると本当にゼロからやり直すことになるけど、「半年続いた上で一か月休んだ」と考えるなら、現在地は残る。積み上げたものも、再開するための経験も。

規模は違うけど、ひきこもりから外に出始めた人が数日家にいたとして、それまでの積み重ねが消えるわけじゃない。再開できるだけの経験は残っている。

再始動を難しくするのは、失敗そのものより、失敗を全損として扱うことなのかもしれない。

もう一つ、最近意識していることがある。初期のコストをかけすぎないことだ。ここでいうコストは、金銭的・制度的な先払いのコミットメントのこと。

以前は大きな先払いをして自分を追い込む方法を選んでいた。でも今は、年間契約より月契約を選ぶようにしている。最初から大きく賭けるより、途中で方向転換できる余地を残しておく。

これは本気じゃないからじゃない。むしろ長く続けたいからだ。再開の敷居を下げておくこと自体が、運用設計の一部だと思っている。

再始動の初期は、成功体験が目立つ。でもある程度進むと、課題は加速ではなく維持になる。そして維持の段階では、「一度も崩れないこと」より、「崩れた後に戻ってこられること」の方が大事になってくる。

再始動とは、止まらないことじゃないのかもしれない。多少止まっても、多少遅くなっても、また歩き出せる状態を残しておくこと。

最近はそんなふうに考えている。


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2026/06/16

6/16 散歩

 




歩くことはストレス解消に良いと、世間ではよく言われている。頭を空っぽにして規則的に足を動かせば、鬱屈とした気分も晴れていく。理屈としては十分に理解しているつもりだ。しかし、皮肉なことに心身の調子が本当に悪くなってしまうと、人間はぱったりと歩かなくなる。玄関のドアを開けて外に出ることすら億劫になり、ただ部屋の中でじっとやり過ごすしかなくなってしまうのだ。だからこそ、そうなる前の予防策として、なるべく習慣的に歩きに出ようと心に決めている。


とはいえ、「健康のため」「運動のため」と高尚な目的を掲げすぎてしまうと、それはたちまち日々の義務へと姿を変え、かえって足取りを重くしてしまう。だからこの頃は、なるべく気負わずに歩き出すようにしている。ウェアを着込んだり、特別な準備をしたりはしない。履き慣れたスニーカーにに足を滑らせ、ただフラッと外へ出るだけだ。


ひとたび外へ出れば、狭い部屋の中にいるよりも、偶然に出会うものが圧倒的に多い。やや早足で、軽めの足取りでいつもの道を抜けていく。すれ違う子どもたちの楽しげな会話の断片。風に揺れる木々の間からこぼれ落ちる、柔らかい木漏れ日。ふと空を厚い雲がよぎり、一瞬だけ世界がフッと暗くなる静かな時間。どこかの庭先で生け垣を剪定したばかりなのだろう、鼻をくすぐる青臭い植物の匂い。私はそれらを立ち止まって凝視するわけではない。ただ通り過ぎながら、景色の一部としてぼんやりと受け止め、また歩き続ける。


こうして歩こうとしているのは、根本を辿ればメンタルや体調が崩れないようにするための予防策に他ならない。しかし、歩いている最中は、そんなもっともらしい理由は意識の片隅にすっかり追いやってしまう。「運動しなきゃ」という強迫観念から自分を解放し、ただ外の空気に触れて、少しリラックスした自分の本来の調子を思い出す。それこそが、今の私にとって最も大切なことなのだ。


息を切らして汗をかくようなハードな運動は求めていない。その日の気分に合わせて適当な距離を歩く。疲労困憊になるまで歩き続けるのではなく、まだ少し歩けそうだなという「余力」を残して家路につく。靴を脱いで部屋に戻ったとき、心身の風通しがほんの少しだけ良くなっているのを感じる。気負わない、目的を忘れるための散歩。それが、今の私にちょうどいい習慣になっている。

みい山アニメ化をきっかけに考えた観客席の話

観客席の話 『みいちゃんと山田さん』『地元最高!』『ウリッコ』。このあたりの漫画には、共通した感触がある。人物を、家庭環境、認知のかたより、貧困、搾取、福祉につながれない事情、といった補助線で読ませてくるところです。読めば「たしかにそう見える」と頷ける。頷けるのだけれど、同...