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7月, 2023の投稿を表示しています

ひきこもりであることを隠すことには合理性があるのか

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    私はひきこもりであることを話すか話さないかについて悩んでいます。 この記事では、その悩みの背景や理由を説明し、自分の考えを示します。 ひきこもりであることを話す場合 ひきこもりであることを話す場合の良い点と悪い点は以下の通りです。 - 良い点:自分の状況や感情を正直に伝えることで、他者から共感や理解を得られる可能性があります - 悪い点:話すことで傷つくことがあります。例えば、「自分は家にいるのはぜんぜん苦じゃないんだよね」「ひきこもってられるのは良いことだようらやましいよ」というような発言をされることがあり、上から目線で無神経な発言に感じます。そういう発言に対してストレスを感じます。 ひきこもりであることを話さない場合 ひきこもりであることを話さない場合の利点と欠点は以下の通りです。 - 利点:自分の弱みを隠すことで、冷淡な接し方や雑な扱いを避けられる可能性があります。かわりに抗議する人がいないと思われるので、雑な扱いをされやすくなるという考えです。それなのでちゃんと扱われるため、あまり自分の弱みを語らずに擬態することにも合理性はあるようにも思います。 - 欠点:孤立することや学ぶ機会を失うこと。前回の記事『周りの人との距離感について考えてみた』では、「要するに、支援者に求めるような期待を別の立場の人に求めるのをやめて、他の人との関係から新しい見方や考え方を見つけられるのではないかと思います」と書きました。 私はひきこもりから脱したいかという問は、ちょっと難しいです。健康状態などあまり変えられない事も絡んでいますから。それなので活動できるときもあれば、できないときもあります。トータルではそれほど活動が多くなくとも日常は、不調に崩れることを見越しながら積み直そうとする持久戦のようにも思えます。ポジティブにそう思っているわけではなく、大きな変化は続かないことからの妥協です。 私はひきこもりであることを言うか言わないかについて決めかねています。 言うのか言わないのか、結論は今回も出ません。 言う言わないによる他人の対応などはそもそもコントロールしきれないので今の悩み自体がナンセンスな気はします。けっきょくのところその場次第でもあるでしょう。いまは自分の行動範囲の中で、やっかいに見られないように振る舞おうとしているだけです。   参照記...

ひきこもりを話すことの懸念

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    私はひきこもりです。ひきこもりであることについて、周りの人たちとコミュニケーションするのは難しいです。善意の人が何も言わないほうがマシなことを言ってきます。 「自分は家にいるのはぜんぜん苦じゃないんだよね」「ひきこもってられるのは良いことだようらやましいよ」 そういう言葉を聞くと、私はどう反応すればいいかわかりません。相手は気さくに対等に話しているつもりかもしれませんが、私にとっては上から目線で無神経な発言です。私はそういう発言に対してストレスを感じます。 だから、私はひきこもりだと言わないですむなら言わないし、小出しにします。それが処世術だと思っています。自分を隠すことで、コミュニケーションコストを減らすことができます。気難しすぎる態度を取ることで、相手を萎縮させることを避けることができます。 でも、AIに相談したら、それは良くないことだと言われました。 「あなたが自分を隠していることは、あなたが自分を否定していることになります。あなたが自分を否定していることは、あなたが自分を嫌っていることになります。」 AIはそう言いました。私は嫌気がさしましたが、反論することもできませんでした。 この話に結論はありません。私はまだ迷っています。でも、少なくとも、私は自分の気持ちを書くことで、少し楽になりました。   ブログホームに戻る

不利な立場と迷惑行為の関係性

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  加害性のある弱者という言葉がある。不利な立場にある人が同時に迷惑行為を行うということだ。彼らを不利にした原因は被害にあっている人たちに直接の関係がない場合も多い。一般的に被害に合わないために危険な人間から離れることは手放しで奨励される。加害的な者がまた弱者の一面を持つのならば、それは弱者の排除であると言えるだろうか。 この問題には様々な事例が考えられる。単純な話で言えば比喩としても現実としても、危険な街路を夜に一人で歩くようなことでもある。または、時として保護が必要な人物が周囲の人に有ること無いことをいって集団を混乱させ個人に迷惑を与える場合もある。LINEグループから外されたりすることはままあるだろう。相対的に、なにか手当されないとならない人物であるかもしれないけれど、手立てを考えようもないので触らぬ神に祟り無しとなることが多い。 このように、加害性のある弱者は社会的にも個人的にも困難な存在である。だからこそ、社会全体で考えていかなければならないというのは当然のことだろう。しかし、どういう風にその考える場面を作っていくかは、語りようがないほど難しい。 いじめや加害的な弱者の問題に対して、虐められていた者が「いじめられるほうにもまた、その理由はある」というつぶやく場合もある。その言葉じりだけで過剰に叩かれるのも特徴的だ。口をふさがれがちな「いじめられるほうにもまたその理由がある」もまたいじめを考える問いかけになっていると思う。それを塞ごうとするならば、やはり全体で考えていこうというモットーはモットーでしかありえないんだろうなと思う。 あってはならないことがあってはならないのは当たり前だが、許さない、社会全体で考えていかないとならないと言いながらも口をつむぐしかないのが現状であろう。   ブログのホームにもどる

モテについて考える2 コミュニケーションのコツと注意点

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 こんにちは、ひきこもりのブログの管理人です。前回の記事では、相手に好感を持ってもらうためのノンバーバルコミュニケーションとリラックスした見た目について考えました。今回は、相手と良い関係を築くためのコミュニケーションのコツについて考えてみます。これらは、自分の印象や関係に影響します。自分の経験や学習から気づいたことを話したいと思います。前回の記事は末尾にあります。  ノンバーバルコミュニケーション ノンバーバルコミュニケーションとは、声のトーンや表情やしぐさなどで相手に印象を与えることです。これは、話す内容よりも話し方や見た目が大きく影響することがあります。例えば、同じ言葉でも笑顔で言うか無表情で言うかで印象が変わります。 ノンバーバルコミュニケーションで好感をあげるには、リラックス感やこなれた感じを出すことが必要です。これは、自分が楽しく話していることや自分が話すことに自信があることを示します。リラックス感は、声が高くならず落ち着いていることや話す速度が速すぎず遅すぎずであることです。こなれた感じは、表情が豊かで笑顔が多いことやしぐさが大きすぎず小さすぎずであることです。相手にも楽しさや信頼感を与えることができます。 例証 :あなたが好きな人に「今日はどうだった?」と聞かれたとします。あなたは「まあまあだった」と答えます。このとき、あなたが笑顔で答えると、相手はあなたが楽しく話していると感じて、会話を続けやすくなります。しかし、あなたが無表情で答えると、相手はあなたが興味がないと感じて、会話を切り上げやすくなります。 リラックスできるようになるには、練習や恋愛以外での感情面のセーフティネットや失敗を恐れないことが必要です。練習は、自分の声や表情やしぐさをチェックして改善することです。セーフティネットは、自分を支えてくれる友人や家族などの存在です。失敗を恐れないことは、自分が完璧でなくても良いと受け入れることです。 他の人間関係 他の人間関係とは、恋愛以外の友人や家族などの関係です。これらの関係は、自分に大きな間違いがなければそうそう人には嫌われていないという実感を持つことができます。これは、自分に自信を持たせる効果があります。 他の人間関係は、相手に自分の魅力や信頼を証明するものだと私はおもいます。これは、自分を魅力的に見せるために有効です。例え...

ふだん聞き役でいる私がブログで練習している書き方

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  私は話すよりも聞く方が得意です。相手の話にうなずいたり笑ったりするのは上手だと思います。でも、話すのは苦手です。物事を深く考える癖があるので、ときどき相手に誤解されることがあります。それで相手を困らせないように、聞き役に徹しています。 最近はブログの文章を書いてAIにチェックしてもらっています。ネガティブな言葉遣いの癖を直そうと思っています。この練習は効果があると感じています。文章を訂正しながら、過去の失敗を反省することも多くなりました。 ただ、AIによるチェックで修正を繰り返すと、自分の思っていることと違ってきます。私はブログを書くのは、コミュニケーションについて自分なりに考えるためです。Twitterなどで見るコミュニケーションの方法は参考になりますが、私には合わないこともあります。 自分の考えを伝えるために、シニカルさを抑えてわかりやすく書くことに挑戦しています。AIに修正された文章のように話せたらいいですね。そうすれば言いたいことも言えて、相手にも通じる言葉を使えると思います。 でも、ブログで書くような話題は普段話すことがありません。コミュニケーション自体がテーマだったりしますから。コミュニケーションを話題にするとどうしても見下ろし視点になりますよね。 そうした話が好きだと見られて難しい話題を振られると困るからです。ブログだけで十分かもしれません。そんなことを思いながら、今日もキーを打っています。 皆さんはコミュニケーションについてどう思いますか?私のブログを読んで感じたことやコメントがあれば教えてください。     ブログのホームに移動する

うつになるとどうなる?私の場合はこうです

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  こんにちは。私は数年前からうつ病になりました。それ以来、私は色々なことを感じたり試したりしてきました。この記事では、私がうつになるとどんな風に変わってしまったか、そしてどんな風に対処してきたかをお話しします。 自分のやる気や能力が低下する わたしの場合、うつになると、やる気や能力が低下します。例えば、仕事や勉強の成績が下がったり、家事や趣味をから遠ざかります。それと、社交的に人の期待に沿う返答内容を吟味するのもいつもよりもやりにくいです。社交的にやりたいと思っていてもですね。そんな時は人目を避けがちになります。 心配してくれる会話よりも無難な会話がありがたい 気にかけてくれる会話はありがたいです。特にありがたいのは、心配して状況を問いかけてくれるよりも、目の前の物に対しての無難な会話です。「これ美味しいよね」や、「二郎系って行ったことある?」「昔のテレビ番組を覚えてる?」とかですね。つっかえずに会話できている事実がなぐさめになります。 ブログを書くことで自分の感情や考えを整理する このブログでは、うつ病の経験者として、自分の感じ方や対処法をシェアしています。うつ病は一人で抱え込まないでください。専門家や信頼できる人に相談することが大切です。私もまだ完全に回復したわけではありませんが、わたしはブログを書くことで、自分の感情や考えを整理しています。読者の皆さんも、自分に合った方法を探してみてください。 以上、私がうつ病になって変わったことでした。最後まで読んでくださってありがとうございます。   ブログのホームに移動する

周りの人との距離感について考えてみた

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  こんにちは。私はひきこもりの当事者として生活しています。今回は、ひきこもっている方と家族や支援者や友人などの周りの人との距離感について、体験談から考えたことをシェアしたいと思います。 周りの人というと、家族や支援団体や医療関係者などが思い浮かびます。それぞれの人とは距離感が違いますし、職業的な立ち場や役割によって言えないことや配慮しなければならないこともあると思います。わたしは、家族や支援者から助けられたことは自覚していますが、別の距離にいる人の何気ない言葉にも影響を受けることが多いです。 ひきこもり当事者としては、家族や支援者から「配慮の足りない言葉に傷ついた」という経験をしたことがある人も多いと思います。そうした経験があると、配慮の足りない言葉に対して敏感になったり、相手の配慮を見張ったりするようになります。それは、相手にマニュアル通りの対応や言葉を求めてしまうということでしょうか。 でも、そうすると自分も相手も本音や感情を表現できなくなったり、聞き取れなくなったりすることにもつながりますよね。 このように配慮を求める時には、自分が望むような対応や言葉があらかじめ決まっていると思っていて、相手がそれに合わなければ不満や不信感を抱くという姿勢が自分の中にあると言えるかもしれません。     何気ない言葉が持つ力 しかし、家族や支援団体や医療関係者だけがひきこもりの周りの人ではありません。ネットゲームのフレンドや働き出したときの同僚や友達なども周りの人です。彼らは前述の人たちほど配慮する責任もありませんし、配慮の意識も低いかもしれません。それは彼らが悪いというわけではありません。 私は最近、そういう人たちの何気ない言動が効果を発揮し、学びになることがあるのではないかと思うようになりました。 私には私なりの考え方がありますし、それを尊重してほしいと思っています。ただ自分でも分かっていますが、一般的に見れば尖っている考えもあって、あまり不用意に話題にしたり議論したりするべきではない事でない物もあると最近は思っています。   ある時、友人から渋い顔をされたり、「そんな考え方は全然受け入れられないよ」というような、辛抱強くなさそうな率直な反応を受けました。その時、「確かにそうだろうな」と納得しました。 支援者などの職業的な役割の方に...